夏至が近づいてくると、なんとはなしに気持ちが浮き立つ。次々に花が咲き、甘い蜜の匂いが漂い、青い夕暮れに包まれる。その空気と薄明の中で、今年もまた『夏至祭』が読みたくなるのだ。
電灯をつけないままの部屋に、ろうそくだけ灯す。これで十分明るい。薄い文庫本を本棚から取ってきてめくりはじめる。わくわくする。さて、年に一度だけの「集会」に招かれよう。
読んでいて気がついた。何度も読み返しているのに、今年、初めて思った。
……これって、こんなに切ない話だったのか。
たしかに祝祭の話だ。一年のうちに一度しかない、特別で晴れやかな季節の話だ。
けれどむしろ、儚さと寂しさのトーンが全編を通してずっと流れ続ける。どうして今まで『夏至祭』を、楽しく心躍る可愛らしい作品だと思っていたんだろう(いや、可愛いんだけどね)。これは、あらかじめ失われる、過ぎ去ることがわかっているものを書き留めるためにつくられた物語だ。そう言っていいほどだ。
「ずっとここで暮らすのかい、」
長野まゆみ著『夏至祭』文庫版p.24-25より
月彦はある程度の期待をこめて、というのもこの少年たちに興味を持ちはじめていたので、訊いてみた。
「うん、当分はね。ぼくたちは或る集会に参加するんだよ。」
林や泉が残る、郊外の街でのこと。黒蜜糖と銀色と名乗る二人の少年が、近所の空家に突然越してくる。少年たちだけで暮らしている彼らは、「集会」に参加するために来たのだと言う。月彦は不思議に思いながらも、二人と次第に仲良くなる。彼らの「集会」は夏至の日を過ぎた半夏生の晩、羅針盤の指し示す方角を目印に、棠梨(ずみ)の花の咲き乱れる下に開かれるのだ―

こうして書くとはっきりする。その集会……お祭り……人間が入っていいやつじゃないよね……?
そう。黒蜜糖も銀色も人間ではない。冒頭で、森の蝶が抜け出てきたような(人の世界ではない)薄水青のリボンを結んで、黒蜜糖は、深い茨の垣根を(通れないはずの境を)一瞬でこちらにむかって飛び越えてくる。そして訊くのだ。「きみは誰、」と。友達になるため。そこになんの気負いもない。
人でないものが人に対して、切なくなるほど優しい。
三人になった少年たちが空家の庭でする夕食会の、檸檬水と蜂蜜麺麭の美味しそうなこと。にじますの白バター添えは黒蜜糖と月彦には不評だが、銀色曰く「きみたちはどうかしている」。気丈な銀色が熱を出したのを知恵を出し合って看病したり、「集会」に行くための羅針盤を、不思議な縁で取り戻したりする。少年たちだけの夏の大冒険だ。
しかし、終わりは最初から決まっている。
話が進むにつれて、「うん、当分はね。」と言って済ませた黒蜜糖の気持ちがわかる。彼らは、夏至と半夏生をはさんだ朔月と朔月のあいだしか、こちらの世界にいられない。カウントダウンが始まる。というより、物語の最初から、書き手は容赦なくカウントダウンをしていた。曜日も日付も書かれない物語の中で、月が満ちて欠けていく。月彦も「集会」がいよいよ近づいて浮き立つ気持ちと同時に、どこかで寂しさを感じている。
月彦と祖母はしばらく黙って腰かけたまま、遥か遠くの丘陵の上で回る観覧車を見つめていた。それは少しずつ間近に感じられ、いつしか宙へ昇っていく船に乗っている気がした。
同p.98より
でも考えてみれば、すべての祝祭が、寂しさをあらかじめ含んでいる。終わりがあるからいとしい。黒蜜糖と銀色との日々は楽しくて、でも彼らは子どもの時にだけ会える存在なのかもしれない。「ずっとここで暮らす」ことはできない。
ただ、書き手はひとつしかけをした。いつの日か、彼らが再び出会うことができるように。過ぎた祝祭はいつか、白い花の咲く季節に帰ってくる。

時がたち、腕時計の鍍(メッキ)がふたたび剥がれ落ちる日が来れば、もう一度彼らと逢うことがあるかもしれない。月彦はそう思った。
同p.140より
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