夏のさかり、祖母の家で休暇を過ごすため、紅於(べにお)と頬白鳥(ほおじろ)の兄弟は沼のほとりにやってきた。「この沼には子供が沈んでる」と従兄の草一は言う。しかし幼い頬白鳥は、兄や草一の止めるのも聞かず、水蓮の咲く沼にたちまち惹きつけられる。
沼には不思議な魅力がある、と思う。それは湖や池にはない魅力だ。
そう思うのは、私がもともと湿地びいきだからかもしれない。ふつう、沼というとあまりいい印象を持たれない。水がきれいで涼しげな湖や池に比べたら、沼はどうしてもやっかいものだ。「底なし沼」という表現がそれを物語っている。黒々として底が見えない様子は不気味に思われるのだろう。
しかし、私は「底が見えないこと」がいやではない。
黒々と湛えられた静かな水の、見えない水底を見ようとするとき、こちらの心持まで静かな水のようになっていくのを感じる。深さを推しはかる。深いといい。浅いと、そこで静かな水を思い描いている時間が終わってしまうからだ。だから、私にはわざわざ兄に尋ねてみる幼い少年の気持ちがよくわかる。
「どのくらい。」
長野まゆみ著『夜啼く鳥は夢を見た』文庫版p.56より
「さあね。」
「僕がすっかり沈むくらいは深いと思う。」
「たぶんな。」
頬白鳥はその答えを聞いて、満足げに微笑んだ。
そうだ。「人が沈むこと」も、沼がこちらの想像力に働きかけるうえで、はずせない魅力だ。天沢退二郎の『魔の沼』、三浦哲郎の“睡蓮”や福永武彦の“沼”といった作品(みんな人が沈んでいる)を思い返す限り、少なくとも、沼小説の書き手はそう考えていそうだ。
それから、沼は幾重にも堆積した泥のあいだに「姿を隠してくれる」だろう。沼の水全部抜いたくらいでは、沼の秘密は明らかにならない。いつしか身体は消え、水蓮になって花を咲かせるかもしれない。
兄は幼い弟が沼に近づくのを止めるために「深い」と答えたのだろうに、病弱な少年、頬白鳥はまったく沼を怖がらないのだった。それどころかますます沼に惹かれていく。彼は無邪気なまま、沼に腕をとられ、足をとられて、それでも恍惚としている。
怖くないのだ。彼にとっては、心地よい冷たい泥の中に沈むことは、死に直結しない。沼の深い泥の下には、生でも死でもない静かな睡りの世界が広がっている。そう彼は信じているし、この物語は、結果的にそのようになる。
読みながらはらはらすると同時に、私もまた、静かな水を思うとき、睡りの世界にいっとき憧れていることに気づかされるのだ。
兄さん、あの沼は深い。どのくらい。

追記)長野まゆみ作品、とくに初期は、死を「卵の殻の中に閉じ込められる」とか、「南へ行く」とか「身体が柘榴石になる」という描き方で表現している。「沼に沈む」もそうだ。そんな死はない。そんな死に方は、この現実にはないのだ。ただ、そういう描き方であることで、人格を持った個人の死ではなく、生物にとっての死とは何か、という問いに近づこうとしているように私には感じられる。
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コメント
更新を楽しみにしていました。
群青色なのか、深い青色の水に浮かぶ、筐体に包まれた、あどけない男の子のイラストが素敵ですね。この猛暑を一瞬忘れるほどの清涼感です。
ビル・エヴァンスとジム・ホールのアルバム「アンダーカレント」のジャケット写真が好きなのですが、それを不意に思い出しました。
>>1
楽しみにしていただき、ありがとうございます。水の存在を感じる絵を描くのが好きです。難しいんですけどね……。
私はジャズに明るくないので、“アンダーカレント”のジャケットを検索して見てきました。水底に沈んでいく白いワンピースの女性、不穏さと心地よさが同居する画でした。(「ロメイン」を聴きながらお返事を書きました。)
私も、ジャズは全く詳しくはありません。
わざわざ聴いてくださり、ありがとうございます。
いつも素敵なイラストや文章を見せて頂きありがとうございます。