ページを開いた時に、これから起こることが直感される。
それは筋が読めてしまうのとは違う。これから起こることの必然性を語るような、この書き出しがなんともいえない。
掘割の墨面に、碧く水銹が浮いている。雲はひくく垂れ、通り雨を予感させる温んだ風が吹いていた。
長野まゆみ著『雨更紗』文庫版p.7より
雨が来るんだ。何かが決壊したように降り始める。

さて、私はこの作品を中学生の時に読んでいるはずなのですが、すっかりストーリーを忘れていました。当時の読書ノートを見たところ「よくわからなかった……」と書かれていたので、それじゃ忘れていたのも無理ないか。
ただ、雨に降り込められた屋敷の廊下の奇妙に静かな様子、螺鈿の椀で天水を受けるシーンなどは、まるで自分の見た風景のように鮮やかに覚えていました。その、記憶のなかの穏やかな憂鬱さに入り込みたい気持ちで、もう一度手に取ったのです。
しかし、私の記憶に反して、物語自体は全然穏やかではありませんでした。むしろ不穏です。
冒頭から結構な緊張感で、サスペンスといっていいかもしれません。雨は、途中から雷鳴を伴って土砂降りになる。
学校を休んだ従兄のために筆記帳を届けに行く哉(はじめ)は、先々で間違われる。皆、哉のことを屋敷で寝ているはずの玲(あきら)と間違うのだ。哉は玲が苦手だ。よそよそしい屋敷にも近寄りたくないのだが―
中盤、物語の秘密が明かされるところからは、固唾をのんで見守ってしまう。主人公の少年が無事に「家に帰れる」のか、という心配は、読んでいくうちに、家に帰ることが本当に彼にとって幸せなのか、という疑問に変わる。彼一人の歪みをただすことが本当に解決だろうか?
屋敷の人々は皆それぞれの認識と記憶を持ち、客観的事実なんてものはこの世界では意味を持たないように見える。
けれども、それが歪みである(と少年が認識している)以上、いつかは決壊する。
雷雨に包まれた屋敷の廊下が奇妙に静かになるとき、ああ、来るべきものが来た、と思う。
決壊した先に何が待っているかは、きっと彼も知らない。
それが憂鬱でもあり、反面、すがすがしくもあるのだ。
追記1:この作品は、身体と人格、記憶が一対一対応でなくなる長野まゆみの作品群の一つとして読むことができます。長野作品は「人格が同じであればコピーでもオリジナルでも同じ人でしょ?」「記憶が違えば同じ身体でも違う人でしょ?」「他の人の記憶に残っていれば実在してもしなくてもあまり問題ないでしょ?」といった問いを投げかけてくる。そのときに「そ、そうかも……」とうろたえるのが、長野作品を読む楽しみのひとつだと私は思います。
追記2:そういえば、鳩山郁子の漫画作品に“スパングル”(『ミカセ』新装版に所収)というのがあって、これも同じく「家に帰れなくなった」子どもの話です。でもこれは「家に帰るのが正しい」という前提が揺らがない作品なので、『雨更紗』ほどの不安感はない。充分怖いけど。
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