寒宵堂三周年

 夜更けに、仕事がこないので職場で本を読んでいたら、退勤する同僚が「いいですね、読書ですか」と声をかけてきたことがありました。あ、しまった、と思って顔を上げたら、彼は穏やかに笑ってこう続けました。
「石井さんが読書をする姿には、安心感があります」
 
 予想外の言葉でした。
 思わず湯気の立つ紅茶のカップを手にしたまま、中沢新一の『蜜の流れる博士』を開いたまま、スティーブン・レベンクロンの『鏡の中の少女』を脇に積んだままの仕事サボりスタイルで、しばらくポカンとしました。そのあいだに同僚は、啓示を与えた天使のようにすみやかに退勤しました。


(※特に後者は徹夜本です。いかに私がその晩仕事をする気がなかったかしのばれる。)

 はて。
 読書は、すべて自分の魂のためにしてきた。教養も、すべて自分の精神のために集めた。
 しかしこのとき、ふと気づいたのです。人のために本を読む、というあり方が存在すると。

 自らの読んできた本で、人をインスパイアすることができる本読みがいます。例えば、ウンベルト・エーコや松岡正剛、二階堂奥歯のような。……そこまで影響範囲が大きくなくてもいい。職場や教室や、身近な集まりの範囲でいい。本の紹介をするといった直接的な行動に限りません。その人の中に蓄積された言葉と視点でもって自然に、共同体に新しい風を吹き込む、そういう本読みは、周囲を知らず知らずのうちに豊かにします。私は、社会的本読み、と呼ぶことにしました。
 (ちなみに、天使のように退勤していった前述の同僚も、読む人です。)

 さて、寒宵堂の名前は、中国の古い詩句「一灯独り寒宵を守る」から採りました。寒い夜にともしびが一つまたたいている、という光景を、漢籍の感性は「誰かが灯りをつけて本を読んでいるのだ」と解釈します。この詩句を知ったときは、本と向き合うその静けさ、孤独に憧れたのです。

 今は、この詩句の灯りに、本を読む人がいることの安心感も重ねます。
 私は社会的本読みになりたい。そうあり続けたい。

 と、理想の高い話をしましたが、一方で、自分の魂のためだけに読むから自由で楽しいんだよなあとも思います。たいていはそう思って記事を書いています。本と対話したり、時には切り結んだりした極めて個人的な語りと絵を、見に訪れる方はありがとうございます。ランプに油を注ぐように、時々いただく拍手もうれしいです。
 寒宵堂も三年目を迎え、私は自分の手元だけを照らしていた灯りを、ほんの少し上に掲げます。

本棚。薔薇の名前、クラバートほか

 願わくは、灯りの明るさと、心を安らがせるやさしい暗さが、ともにここにあるように。

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◆当初そんな大それたことをするつもりはなかった。

◆やっぱりなかった。

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