鬼の国には“十年儀式”という儀式がありました。
鬼の国で十年を過ごした者は、十年目の“誕生日”を国中の鬼たちから祝ってもらえます。儀式の中で、十歳になる鬼の子どもは、自分が何者になりたいかを宣言します。それによって正式に、一人前の鬼として国に受け入れられるのです。
モーリは、立派な鬼の王さまと、美しい女王の間に生まれた、利発な鬼の子どもです。加えて誠実で、周りを気遣うことのできる優しさを持っています。国中の鬼たちが、モーリにゆくゆくは国を治めてほしいと思っています。いよいよ、十歳を迎えたモーリのために、国を挙げて“十年儀式”が始まりました。銅鑼の音が鳴り響いて、鬼たちは広場に集まり、壇上の王さまが重々しい声で息子のモーリに問いかけます。そしてモーリは、
モーリは、儀式を……受けませんでした。
おのりえん著『メメント・モーリ』p.175より
「イニシエーション」という言葉に「通過儀礼」という文字をあててしまうと、あたかも苦もなく「通過」できるかのように思えてしまうのだけど、たとえば初期のキリスト教団が新規加入者(洗礼志願者)の頭を押さえつけて水に沈めていたことを考えてほしい。あるいはバヌアツの有名なバンジージャンプ。ひょっとすると死ぬ。ほかにも崖の上から身を乗り出したり、高所から川に飛び込んだりといった、ひょっとすると死ぬ「通過儀礼」がこの列島各地にも残っているが、恐ろしいことにこれがイニシエーションの本来のかたちだ。ひとを「イニシャライズ」、つまり「初期化」して共同体に迎え入れるためには、いったん死んで生まれ変わってもらわなければならない。それが本来苦しくないはずがないのだ。祝ってる場合じゃない。
私がこの本に出会ったのは、十歳になる少し前のことだった。毎日、生きのびるのに大変なエネルギーを使っていた。私は、自分が生きて社会に受け入れられるところが想像できなかった。大人は生き残った者ばかりだから笑って見ていられるのだ。子どもの私からしてみれば、そんな彼らはみんな無神経を通り越して、どうかしていた。
そう思っている子どもはきっと今もどこかにいる。そういう子どもは現実から逃げるために物語を必要とするのではない。物語を通じて、自分の指先に触れている死の手触りを改めて確認するために、読む。『メメント・モーリ』という作品はそれをさせてくれる。この物語は、「通過儀礼」の本質的な苦しさと、それを受けるものの恐れを、よく知っている。忘れていないのだ。
さて、モーリについていえば、恐れが先に立って儀式を受けなかったわけではない。そもそも“十年儀式”自体はそんなに恐ろしいものではない。
いつの時代でも、どの世界でも、いったん生じた歪みは真っ先に弱い者の上に現れる。幼い王子は、(そうとは知らず)国の歪みを一身に受け、沈黙したのだ。その結果、鬼の国の時間は止まり、同じ一日を何十年も繰り返すことになる。
時間の止まった国に、人間の世界から一人の子どもが迷い込む。彼女、ほほもまた、家の歪みを一身に受けた子どもだ。それから、人間の世界で育った、鬼のヨロイ。森の鬼として生まれたけれど、自らの意志で水の鬼として生きることを選んだフロー・ヒール。そしてモーリ。決して強くはない彼らが集まったとき、今度は本当の、命を懸けたイニシエーションの冒険が始まる。失くした鏡を追って、息を止めて、泉の底へ!

イラストは、ほほが、窓辺にやってきたヨロイの羽の中に落ちる冒頭のシーンから。彼女は勇気や決意をもって鬼の国に来たわけではなかった。
イニシエーションの冒険は、いつも弱さから始まる。
いや、逆か。これは、弱く小さい者に訪れる冒険なのだ。
追記:先ほど、大人はみんなどうかしていた、と書いたけれど、どうかしていない人も実はいた。
それがわかったのは高校の卒業式のことだ。
かつての担任、細い体をした初老の英語教諭は、お世話になりましたあ、と能天気に言った私を見つめて「よく、無事で……」と言葉を詰まらせた。彼女は、生徒の私が在校中に死んだらどうしようと思って怖くて眠れず、もしそうなった場合の弔辞と答弁を考えていたことがあったと語った。一方の私は、まあ、人並みに難しいことも考えていたけれど、いつもぐっすり寝てましたよ先生。
担任の告白を聞いて同級生はひでえひでえと憤ってくれたが、私はなんというか、晴れやかな気持ちになって、笑ってしまったのだった。
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◆『メメント・モーリ』の王宮のイメージで作ったCDジャケットのこと。





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