これは、本読みの手から手へと受け渡されてきた、隠された宝です。
『光車よ、まわれ!』。詩人の天沢退二郎が、子どもたちに贈った冒険物語です。
さて、1973年初出のこの本が、30年以上の時間を経て、高校生だった私、石井の手に届くまでには、すでに一つの冒険がありました。
私は、もうすでに「自分に読めそうでおもしろそうな本を手当たり次第に読む」時期を脱していたし、かといってアマザワタイジロウという名前(変わった名前!)も知りませんでした。
私にこの本を教えてくれたのは、顔も知らない大勢の大人の本読みたちです。ある人は評論の中で言及し、ある人はエッセイの中で語り、またある人は突然に日記で『光車』の名前を出しました。何度も偶然に『光車』の話に出会うけれど、実物はどこの棚にもない。それは、隠された宝についての噂が囁かれるように聞こえました。私はとうとう図書館で、地下の書庫にしまわれていた、古くてぼろぼろの重たい本を出してきてもらいました。
それが私と『光車よ、まわれ!』との出会いです。
現在では復刊して手に入りやすくなっています。そういう意味ではもうあんまり隠されてないかも。スカイエマさんの表紙も良いです。
激しい雨の降った日の放課後、一郎は、水たまりに映った怪しい黒い影に引きずり込まれそうになる。折しも、町では水たまりで子どもが溺死する事件が相次いでいた。同級生の龍子によれば、それは≪水の悪魔≫の仕業で、彼らと戦うには三つの≪光車≫が必要だという。一郎は龍子と仲間たちと共に、隠された≪光車≫を探すことになる。
天沢退二郎の幻想的な描写、その文章の強度に、大人になっても読み返すたびに圧倒されます。
詩の、「何を言っているかわからないが言っていることはわかる」という力を、この人は児童書にも手加減のない量で注ぎ込んだのです。たとえばこんな場面です。一郎がひとりで≪水の悪魔≫と対峙するときの描写です。
水はみるみるわき出てきて、たちまち石段のひとつひとつが、水をはった水盤のように空をうつしだした。
天沢退二郎著『光車よ、回れ!』ポプラ文庫版p.54より ※原文では「さかしま」の部分に傍点
そして目の前の段の水が、ゆらゆらと波立ったかと思うと、黒々とした人影がひとつ、そこにさかしまにうつったのだ。
この奇妙な情景を細かく想像するより前に、うわあヤバいことになったな、と子どもでも本能的に察するでしょう。邪悪な敵の手の内に入ってしまったぞ、という感覚が―実感が迫ってきます。
選び抜かれた言葉の力です。「水はみるみるわき出てきて、たちまち」、ここではもちろん水はやわらかさや豊穣のイメージを持たないでしょう。「みるみる」体を冷やし体力を奪い、もしかしたら溺れさせるかもしれないと思わせる。「水盤の」、これも魔術が始まりそうな言葉です。「波立った」、予期せぬものがこちらに出て来る予感がします。「黒々とした人影」、これはもう説明の必要なく怖い。「さかしまに」、水面に映っているから逆、という理解を超えてファウルさを感じさせる言葉です。
文章の密度が高い。単なる内容の伝達を超えて文章が進んでいくので、頭だけじゃなくて体ごと物語の中に引きずり込まれていくような気がします。読んでいると、感覚が理解を追い越す瞬間があります。
一郎と龍子、それに途中で加わる勇敢な少女・ルミは、町の路地裏を駆けまわり、不思議な老人の決死の助けを受け、学校の担任やクラスメイトの妨害をかわして、ついに三つの≪光車≫を探し当てます。
(ここまできても≪光車≫がなんなのかの直接の説明はされません。詩人は読み手の子どもたちを信じて、その想像の力に任せています。)
龍子が輝く≪光車≫をまわすとき、死をもたらす冷たい水は一斉に引き、さかしまの世界は消えて―

―正しい方向に回された世界は、ひとまずの平穏を取り戻します。ただし、円環が回り続ける限り平穏は「ひとまず」でしかない。物語としてはけっこう不穏な終わり方です。しかし、読み終わるとそのことが何ら不思議に思われないのです。この小さな物語は、水鏡のように私たちの生きる世界を映しています。あやうい均衡を保ちながら、世界は続いていきます。
これはきっと、なんどだってある話です。
さあ、『光車』について話す「顔も知らない大勢の大人の本読みたち」に、なりました。
これが、隠された宝に力を与える新たな囁きのひとつになるでしょうか、どうか……
(イラストは龍子です。わら半紙にガリ版で刷った、ような効果を狙ったCG制作です。昭和の学級新聞とか、出所のわからないようなビラをイメージして仕上げました。できればホントにガリ版でやりたかったな。)
【関連記事】
◆天沢退二郎『オレンジ党』シリーズのエルザとルミのイラスト。
◆ほかの天沢退二郎作品






コメント
大人になった今でもザワザワする。
強い者が弱き者を叩く空気がある。
70年代の空気だ。
ルミがベランダから見たもの 夜間閲覧室 杭 写真、人間の怖さが混ざり込む。また描くことがあれば見せてください。偶然見ましたが何か感じるものがありました。ありがとう。
>>1
『光車よ、まわれ!』は何度読んでも鮮烈な怖さがあります。
その怖さ、ザワザワする感じを、解釈しないまま丸ごと画面に持ってこようとして描いたのがこの絵です。光栄です。
初めまして。先日、このブログを知り、過去の記事も読ませて頂きました。
「光車よ、まわれ!」が気になって仕方がなくなり何軒も本屋を探して、今日手に入れました。とてもワクワクしています。
子どもの頃から片時も本と離れず暮らして来ましたが、まだ知らない世界が広がっていることが嬉しいです。またブログを覗かせて頂きます。ありがとうございました。
ありがとうございます。『光車』の噂を囁ける、そのひとりになったことがうれしいです。この寒宵堂もよい仕事をしたということです。
(年末休みを取っていたので、コメントの認識・表示手続きが遅れました。ご面倒をおかけしてすみません)
こんにちは。今日、読み終わりました。〈感覚が理解を追い越す〉、本当にそうだなぁ、と思います。ファンタジーを読み慣れていないからなのか、想像力が足りないのか、場面を頭の中で絵に変換するのに少し苦労していましたが、終盤に近づくにつれ、そんなことが気にならないくらい、物語の中に入り込んでいました。
子供の頃にこの本に出会いたかった気もしますが、読めて良かったです。小、中学生の息子たちに、この本の名を話したので、いつか継承されるかもしれません。
改めて、教えて下さってありがとうございました。
>>7
奇想天外でありながら、場面が記憶に焼き付くようなものすごい本ですよね。私がこのブログを始めた時から『光車』は紹介すると決めていた思い入れのある本です。息子さんたちにもご紹介されたとのこと、とてもうれしいです。