寒宵堂五周年

 先日、机の整理をしていたらこんなものが出てきました。 

クロッキー帖に書かれたメモ

 まだ寒宵堂を立ち上げる前、Webという場所でなにをやろうか考えていた時のメモです。2018年当時、既にTwitterやPixivなどのSNSが全盛であり、個人ブログは勢いを失っていきつつありました。描いた絵や本の紹介をなるべく大勢に見てもらうのが目的であれば、ブログである必要がなかった。むしろ、積極的に探さなければたどり着けないブログという形態は不利でした。

 ではなぜ、それにもかかわらず寒宵堂はブログとして創立したのか。今回はそんな思い出話をします。はじめに断っておきますが、これは全く合理的な話ではありません。

 私はこのメモを書き終わったとき、自分のなかで答えがはっきりと見えたのを覚えています。
 「なるほど、私はブログを運営したいのであって、それ以外のなにものでもない」
 大変ご苦労様でした。比較検討するまでもなかった。脳内出来レースでした。
 私は、同好の士とつながりたい、なるべくたくさんの人に見てもらいたいという気持ちがあまりにも薄かった。ではいったい何をやりたかったのか。
 私は絵を置くことで、どこかに自分の場所を作る実験ができれば、まずはそれでよかったのです。

Ⅰ暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著『千のプラトー』中 p.317より

 ところで、中高生の頃、繰り返し訪れた個人のホームページやブログがあります。疲れた時、温かい飲み物をもって画面の前に座り込み、もう何度も読んだ日記を―顔も名前も知らない人の日記を、またはじめから読み返しました。
 誰かの部屋に訪ねていって、その誰かは不在なのだけど、招かれた場所でくつろいでいるような奇妙な体験でした。出版された日記を読むのとも違う。私はそれらのブログの内容だけでなく、使われていた言葉や言い回し、はては背景の色や模様、文字の色、設置されたボタンの位置までも、今でもよく憶えています。
 そこは、多くの情報が流動的に入ってくるにぎやかなメディアとは対照的でした。情報が(それこそ背景の色や模様に至るまで)誰かの感性で選別されていて、しんと静かでした。閉じているゆえの豊かさと安心感があり、私はそれがとても好きでした。
 寒宵堂を始めてしばらくたったころ、私はようやく自分が何をやっているのかわかってきました。「おぼつかない歌」からもう少し先に行ける。ここを隠れ家として、心地よく整えられないか。

Ⅱ逆に、今度はわが家にいる。もっとも、あらかじめわが家が存在するわけではない。わが家を得るには、もろくて不確実な中心を囲んで輪を描き、境界のはっきりした空間を整えなければならないからである。

同p.317より

 (デザインも当初はテンプレートをそのまま使っていたけれど、のちに背景の色をカスタマイズしてアイスグレーにした。北国ではなじみ深い、雪に落ちる影の色だ。広告はいろいろ試してなるべく表示されないようにした。「境界をはっきり」させる。) (※ライブドアブログ時代の旧画面です)

背景がまだ黒っぽい頃と雪白になった後のブログの画面

 「一灯独守寒宵(一灯独り寒宵を守る)」、この中国の古い詩句のように、小さな灯りをともして本を読み、絵を描き、置いておくことを5年間続けてきました。
 今思えば、私が繰り返し訪ねたブログたちも、最初は誰かの小さな歌であったかもしれない。しかしそれが思わぬところで、ほかの誰かを守り、ときには書き手にさえまだ見ぬ地平をひらくことを、私はもう知っています。

Ⅲさて、今度は輪を半開きにして開放し、誰かを中に入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分が外に出ていき、駆け出す。

同p.318より

 願わくはここに、閉じられた豊かさと、開かれた澄明な視界が、同時にありますように。

おまけ)アイコンを更新しようかなーと思って同じように描いたつもりなんですが、なんとなく5歳分くらい年をとってました。

15歳くらいのタバコを吸う少年

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◆今読み返したら「自分の手元だけを照らしていた灯りを、ほんの少し上に掲げます。」と書いていた。このあたりから何をやっているのかわかってきた気がする。社会的な読書の話。

◆個人的な読書の話。

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