寒宵堂四周年

 弦はすべて、錆ひとつないように磨きあげ、締めなおして音程を保つ。
 さて、隠喩の和音が調和をもって響くか。諷喩の倍音が導き出せるか。
 場面の描写から象徴の位相までを自在に転調できるか。
 疾走するタッチの軽やかさが出せるか。同時に、重さが受け止められるか。

 ……よし。ウェル・テンパード(well tempered)。本日はまずまずの調律です。

 去年は、「人のために読む」社会的な本の読み方の話をしたので、今年は、非常に個人的な本の読み方の話をします。
 私は、自分が、これから読む本のためによく調律された楽器のようになっている状態が好きです。

 と、自分で書いたところで早くも絶望してしまった。だめだこりゃ。
 なぜ、本一冊普通に読めないんだろう。本なんて書店や図書館に行けばいくらでも並べられているじゃないか。手に取って開けばいい。最初のページから文字を追うといい。小説であれば、文字を追えば場面が流れ込んでくるし、登場人物の台詞や挙動から人となりが描き出されるのがわかる。ちょっと時間があれば、簡単な作業じゃないか。つかの間、知らない風景を見てくることは人生を少しだけ豊かにする。気負いなんていらない。

 いや、ちがうんだよ。私の思う「本を読む」ってそういうことじゃないんだ。
 真剣に本を読んでいるとき(実感としては「いつの間にか真剣になっている」ですが)、本と自分の間が一直線につながるのを感じます。風景が呼び起され、登場人物は本当にいるように生き生きと感じられます。私はその時、楽器であると同時に演奏者です。本を読み、そこに表現されている世界を立ち上げようと奮闘する。だから、集中力が足りないことや、前提とされる知識があまりにも足りないことを、恐れるのです。音を外したりフレーズがつっかえること、弦が切れることを恐れるように。

(なんとなく、私の周りの本読みも、多かれ少なかれこの恐れを持っている気がします。「この本を読む心の準備ができてない」とか、「このままいくと打ち負ける」と表現します。血の気の多い人たちだ。)

 ところで、真剣になって奮闘し、その本の世界を立ち上げたい(その音楽を聴きたい)と何よりも望んでいるのは私自身です。ここには、ほかに人はいません。
 このとき、現実に楽器を演奏しているのではありえないことが起きます。
 いうなれば、弾いているうちに自然に弦が増えたり、その曲に合った調律になったりする。本を読んでいるうちに「私」のほうが変化していくんですね。そうなると、ああそうだったのか、こういう響きか、こういう世界か、こんな風に見えるのか、とはじめて本当にわかります。そしていつの間にか「楽譜」と「演奏者」と「楽器」の境目は消え、音楽だけが響きます。

 私の思う「本を読む」とはそういうことです。
「私」はいなくなり、本だけが生命を得て残る。読書を享楽するということ。

 寒宵堂は本日で4周年を迎えました。
 この、きわめて個人的な「本を読む」ことを、ここ寒宵堂では、言葉や絵を使ってどうにか社会に接続しようとします。社会に、というのはちょっと規模が大きいかもしれない。同じように本を読む人に、かな。
 いかに通信手段が発達し、情報のやり取りが便利になろうとも、本質的に、読書には孤独があります。それは切り離せない。本のために「私」を壊しては作り直し、現実と見比べて軌道を修正する孤独な闘いです。力が足りない恐れに足がすくむのは、けれど、あなただけではありません。
 せめて、疲れた時はここに来て休んでください(と、言えるほど更新が早くはありませんが……)。

 私はここで灯りをともし、古い詩句「一灯独り寒宵を守る」のように、本を読んでいます。

カラーインクで線画を塗っている写真

 さあふたたび、弦はすべて、錆ひとつないように磨きあげ、締めなおして音程を保つ。
 願わくはこれがいつか、寒宵のともしびになりますように。

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◆本読みの社会的な意義の話。いや、意義なんてなくたっていいんだけどね。

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