『球形の季節』(恩田陸)―夕焼け色の哀しみが町を覆う

 ひとつの町がある。
 場所は東北地方のどこか。古くは交通の要衝として栄え、往時の面影を残す町並みがところどころに残っている。特徴と言えばそのくらいだ。小さな市街地のほかは一面の田んぼが広がる、眠ったような町で、三方を蛇行する川に、残りの一方を線路に囲まれている。
 その閉ざされた町に高校が四つある。そこに通う生徒たちの間に、不吉な噂が囁かれ始める。
 噂は広がり、眠った町をかすかに揺り動かした。

鉄塔が山を越えていく風景をバックに、みのり

  学園サスペンス小説『六番目の小夜子』でデビューした恩田陸の、長編第2作目に当たります。
  私は、恩田陸作品のなかではこれを一番読み返しています。もう、ストーリーだけじゃなく、あそこにああいうフレーズがあったな、とすぐに思い出せるレベル。セリフも、もし誰かが出だしを言ってくれたら、それにすらすらと続けられるかもしれない。うわあ。

 あの名作『六番目の小夜子』や『麦の海に沈む果実』もあるのになぜ?と自分でもふしぎです。もちろん、どの作品も好きなのですが。『球形の季節』は恩田陸作品のなかではあまり知名度が……人気が高くありません。
 さらに言うと、これはどこにも行かないし何も解決しない話です。いや、だからこそ、ここに戻ってきてしまうのか。この物語の高校生たちが暮らしている町の、湿った寂しい空気を吸いこみたくなる。彼らが見上げていた茫漠とした夕焼けを、また見たくなって、本を開き、この谷津という町を何度も訪れる。記憶のなかの町に会うために帰郷をする。

 さて、不吉な噂の出所を突き止めるため、四校合同のアンケートをおこなった浅沼弘範と坂井みのりたち「地歴研」の生徒は、思わぬ成果を上げる。噂は、彼らのすぐ近くから発生していたのだ。
 しかしそれは、すでに噂が現実になった後だった。
 町の生徒が一人、噂の通りに、姿を消した。

みのりと弘範。おかっぱでちょっとのんきそうなみのり。

(らくがき。みのりと弘範です。彼らはよくある幼なじみ高校生カップルになりそうで、ならない。弘範は内心でみのりを「一種の天敵」と表現する。仲は良い。が、一筋縄ではいかない。)

 噂がその正体を明らかにしだしてからのスピード感は、恩田陸のサスペンス小説ならではだ。視点を変え、人物の外からの印象と隠れた内面を掘り下げながら、核心に近づいていく。クライマックスに向かうにつれて、どんどんついていく加速が怖いほどだ。
 噂の正体が明らかになっても、その時にはもう遅い。まるであちこちで火の手が上がるように、町じゅうを巻き込んだ計画になっている。しかも、恐るべき計画を心待ちにする者すらいる。町の熱狂は高まり、ついに―

―でもね、あたしだってほんとはどうでもいいのよ、みんながどこかに行っちゃったって。

恩田陸著『球形の季節』文庫版p.315より

 と、終盤でいったんブレーキがかかる。計画を心待ちにしながらも、どこか乗り切れない人もいるのだ。

 これは哀しみを抱えている人たちが始めた、ささやかな試みだった。谷津という町をうまく利用して、いつの間にか大勢の人たちを巻き込んでしまった。けれど、この大掛かりな計画で哀しみは癒されない。哀しみは、とても個人的なものだからだ。それを彼らも、本当はわかっている。
 立ち尽くす細い背中を、山にかかる夕焼けが包んでいく。

 最後まで読むと、あの人もこの人も、哀しみを抱えてやり過ごしながら生きてきたのがわかる。そんな人たちを抱えながら、素知らぬ風でまた「眠りにつく」谷津という町はそら恐ろしくさえ思える。
 けれど、谷津が変わらないから、人々はそこに戻ってくる。

 私も、また本を開いて夕焼けに包まれに行くのです。

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コメント

  1. 狗神 より:

    私事で甚だ恐縮ながら、つい最近、
    「本の頁をめくること」
    「本を読むこと」
    この2つの間には、背中合わせでありながらも、天文学的な精神的隔たりがあることを痛烈に感じました。
    ビジネス書ばかりでなく、やはり物語を読まないとな・・・また頁をめくりたいな・・・みたいな、ね。
    そんなこともあり、ある種の疑似体験をさせて頂いているこのblogの更新、毎回楽しみにしています。

  2. 石井 より:

    >>1 確かに、本を読む、特に物語を読むことは、ハードルが高いときがありますね。私は、10代の頃は立て続けに小説(フィクション)を読んだものですが、そんな「精神の乱取り稽古」みたいなことを毎日毎日よくできたな、と今にすると思います。恐れを知らないな。今は恐れを知ったおとななので、小説以外にも視野を広げながら、小説を読む気力を出し惜しみし……いえ、蓄えています。
     しかし「本の話」の記事を書いていると、程度はどうあれ、どこかでその本の前に身を投げ出さなければいけない。それが試合のようにも、譜面を読み込んでの演奏のようにも思えることがあります(自分がその本の話をするに足るか、いつもドキドキします。知識が、感性が、言葉が、あと画力が足りるかどうか)。
    さて、10代のころと今と、どちらが命知らずなのか、わからなくなってきました。

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