『蛇行する川のほとり』(恩田陸)―絵のなかの遠い黄昏

彼女の長い髪と肩の輪郭が、踊り場の高い窓から差し込む光にきらきらと輝いていたのを覚えている。

恩田陸著『蛇行する川のほとり』文庫版p.12より
階段の踊り場から毬子を見おろす香澄のイラスト。

「あたしたち、絵を仕上げなくちゃいけないわ」
 彼女は、おもむろにそう言った。

同p.13より

 毬子は、憧れの先輩である香澄と芳野の計画した夏合宿へと招かれる。高校の演劇祭で使う背景画を仕上げるためだ。川のほとり、船着場のある家に集まった五人の少年少女たちは、浮き立つような夏のひとときを過ごす。しかし、この合宿はかつて起きた事件の「真実」を明らかにするために仕組まれたものだった。毬子は、忘れていた遠い記憶を思い起こすことになる。

干したシーツをとっさにつかむ毬子。冒頭の場面。

 私はこの小説が好きだ。
 仲間だけで過ごす少女たちのまぶしい夏休みと、過去の暗くやるせない事件をめぐる「謎解き」が、めまいのするような明暗のバランスを保って進む。彼女らの残酷な駆け引きの行く先を、息をつめて見守ってしまう。青春もの推理小説として完成されている。読み返してはうっとりする。
 私はこの小説が好きだ……けれど、これをほかの人に薦めるのには難しさがある。衝撃の展開だよ。どんでん返しだよ。青春ミステリだよ。そう言ってしまえばキャッチーに紹介できる。しかし、要約して切り捨てたはずの部分が強く存在感を放つのだ。
 今回『蛇行する川のほとり』を読み返してもそう感じた。
 いっそのこと、これを推理小説とも青春小説とも思わないで読んでみたい。特に、推理小説だとは一切思わないで、むしろそれとは正反対のやり方で読んでみるのが、しっくりくる気がするのだ。

 一番シンプルで典型的な推理小説の例を考えてみる。登場人物がいて、その場で事件が起き、事情聴取があり、環境捜査があり、探偵役が関係者を集め推理(仮説)を提示する。推理は真犯人に真実であると受け入れられ、物語は終了する。
 それに比べるとまず、この物語で扱われる「船着場のある家の事件」は犯罪を立証できない。フィクションを相手になにを無粋な、と思われるかもしれないが、ここから始めたい。少なくとも、立証できる描き方をされていないだろう。
 事件は鞠子たちが夏合宿を過ごす時点からおよそ10年前に起こった。この事件について現在は高校生である彼女らが議論するが、すべての語りが一人称視点、それも、聴き手がいて要所要所の疑問点に答えていく要約的な語りであり、事件時の行動を逐次的に描写する方法をとらない。客観的な視点は(意図的に)排除されている。もちろん、仮説が再現可能かどうかを実証する手段もない。そうするには時が経ちすぎてしまった。
 加えて、殺人をめぐる目撃証言の違いを描いた芥川龍之介の掌編“藪の中”が織り込まれるし、演劇祭のために数点のラフ案から絞り込んだ背景画は「けれど、舞台に置いた時、その絵は意外に映えた。」(p.312)と描写される。映えるか映えないかだ。終盤で事件の関係者を集めて「謎解き」が行われるシーンは一見して典型的な推理小説だが、川のほとりにある野外音楽堂の「舞台」に上がり「仮面」をつけて行われる。
 これはにせ物です、真実なんてどこにもない、と物語全体が言っているようなのだ。

「(略)あたしたちは、自分が見たものしか信じられない。いえ、自分が見たいものしか信じられないのです。真実とは、私たちが見たいと思っているもののことなのですわ」
 誰かが話す台詞を聞きながら、この芝居は、私の今の状況に似ているなと思った。

同p.98より

 これが推理小説だとしたら、ちりばめられたこれらのモチーフは、あまりにも意地悪じゃないだろうか。物語が、ふつう推理小説の立脚する地盤(「真実はいつもひとつ!」―つまり、客観的な真実がただ一つあり、それを論理的に確かめることができるという世界観)の上に立っていない。むしろ、地盤を疑わせようとする要素に満ちている。“終章”でとりあえずはその魔力の範囲を抜け、「真実」がわかったように思わせるが、それすらもこれだけやられれば、「ほんとにこれが真実?」と疑ってかかっても無理はないだろう。さらに読み進んで疑いを完全に払拭したい、という読み手の欲を振り切って、物語は終わる。

 この物語の核は、「真実」が各人の語りでしか語られない、語ることができないところにある。それが、推理小説として受容しようとする読み手の「期待」を最後まで裏切っていく。
 しかしその裏切りは、魅力を損なわないどころか、読み手の意識に宙づりの状態で物語をとどめ、そして囁き続けるのだ。
 「真実」が各人の語りでしか語られないのは、この物語の中だけだろうか。この世界はおおきな物語ではないだろうか。

「あたしたち、絵を仕上げなくちゃいけないわ」
 彼女はもう一度繰り返した。

同p.15より
階段の上の香澄のアップ。

 彼女はよく知っていた。いまとなっては「あたしたち」にできるのは「絵」を仕上げることだけなのだ。
 蛇行する川のほとり、船着場のある家は、遠景に溶けていく。

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