『えんの松原』(伊藤遊)―怨のゆくえ

 地面を歩く。湿った松葉のじくじくした感じ。小枝を踏む音。生き物が身を潜めている気配がする。
 五感が、物語の中に没入していく。

烏のはばたくえんの松原と音羽

 児童書は、「この本が、その子どもが読書の楽しさを知る最初の本かもしれない」というのを常に想定して書かれている。
 だから、「物語を読むこと自体の楽しさ」がまず必要で、それがストーリーや登場人物の魅力よりも上位にくることだってある。『えんの松原』はまさに、そんな作品。児童書オブ児童書です。
 読んでいて続きも気になるし、登場人物もいいけれど、なによりも夢中になって想像することの楽しさがある。文字と、読んでいる自分の感覚がかみ合うことの、根本的な楽しさだ。

 時は平安時代。帰る場所をなくし宮中で女童に変装して働く少年・音羽は、ある日、迷い込んできた小さな少年と出会う。年よりも幼く、か弱く見えるその少年が東宮・憲平親王だった。夜ごと訪れる怨霊におびえる憲平の事情を知った音羽は、怨霊の正体を知るために、昼なお暗い “えんの松原” へと足を踏み入れる。

 小学生のころ読んで、すっかり結末を忘れていました。おもしろかったことは覚えていたんだけど。怨霊のすみかである “えんの松原” はどうなるんだっけなあ…と読み進めていったら、素でパンチを食らいました。

「うまくやるやつがいて、そのあおりを食う者がいる。そのしくみが変わらない限り、この世から怨霊がいなくなるとは思えない。それなのに、怨霊がいなくなったとしたら……、それはいないのではなくて、だれにも見えなくなっただけじゃないか、という気がするんだ。だれも怨霊のことなんか思い出しもしないし、いるとさえ思わない……。忘れてしまうんだ、悲しい思いをしたまま死んでしまった人間のことなんか。それはもしかすると、今よりもずっと恐ろしい世の中なのかもしれないぞ」

伊藤遊『えんの松原』p.381より

 音羽すげえなあ。

 そう、これは、怨霊を祓う話ではない。“えんの松原” は御所の中に存在し続ける。
 理解しあえないものは、真正面に見つめ続けるとさすがに疲れるけど、少なくとも視界から外してはいけないんだ。縁(ふち)くらいに置いておかなくては。縁から、利害損得を超えた解決が出てくることがある。水に流すとか腹に据えるとかだけが怨みのゆくえではない。

 それから、これは「もし、周囲のほぼすべての人から生きることを賛成されない場合、それをはねのけてどう生きるか」という話でもある。
 この話を必要とする子どもは、平安時代の呪われた東宮でなくても、いる。そういう子どもにとってはこの本は、想像の世界で力になるかもしれない。想像の世界でもらった力は、現実の強さになることがある。読書の不思議のひとつ。そういうところもまた、児童書オブ児童書なんだなあ、これは。

 イラストはクロッキー帳にヌーベルのパステル。主線はカブラペン。文字入れと仕上げのみ描画ソフトです。
 しかし、ダークファンタジーのイメージイラストを描いていると、洋の東西を問わず、やたら鳥を描くことになりませんか。私は描かされてます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました