幼稚舎から高等部を備える聖フランチェスカ女学園は、「秘密の花園」と呼ばれるにふさわしいカトリックの女子校だ。少女たちの真面目さと育ちの良さでつくられる穏やかで整った時間が、この花園を包んでいる。しかし、その均質な穏やかさは、彼女たちをときに息苦しくする。同時に、社会の女子を見る目は容赦ない波となって、やはり彼女たちに襲いかかる。
じっとしていたら窒息してしまう。いっそ「洪水」のような破壊的な変化を起こして、自分で自分を更地にしてしまいたい。そんな不安と焦りで物語が始まる。
私はもう期待したくない。自分の中に期待があることを認めるのすら今はつらくてむなしい。私はすべてを押し流してしまいたい。オリーブの葉の一枚も残さぬように、私の中の期待のすべてを滅ぼしてしまいたい。
三浦しをん著『秘密の花園』文庫版p.53-54より
これは、それぞれのやり方で息苦しさから逃れようとした、三人の少女の物語だ。
あまり学園ものだということにとらわれずに読める。べつにお嬢様学校でなくても、共同体の内圧と社会の外圧に同時にさらされるのは、この国に生まれた女子につきものだからだ。学校を卒業しても形を変えてずっと続く。だから、「どこにも逃げ場がない」「だれも味方がいない」と感じる窒息寸前の女子のすべてに向けて、この物語は書かれた。ただし、単純なエール(応援)ではない。
先ほどの引用は、三人の少女の一人である那由多のモノローグだ。悲痛なつぶやき。しかし、彼女はこのように続ける。
何かを恃(たの)みにするのではなく、自分の力で切り裂き踏み固めなければならない。それが私の望みだ。そうでもしないと始められない。
同p.54より
冒頭のこの宣言は一見、頼もしい。
那由多は予備校で知り合った男子高生と交際を始める。だが、那由多は友人の翠ほどには彼と好きなものを共有できず、関係は上手くいかない。物語が進み、那由多が望んだ、秘密を抱えた自分を変えるための「洪水」は、実際には暴力による社会への報復となって、彼女からあふれ出す。
一方、学園を「ぬるま湯」と言い、教師との恋愛にすべてを賭けた淑子は、関係が終わるとともに、すべてを失くした思いに襲われる。
那由多は学校に出てこられなくなり、淑子は姿を消す。

息苦しさから逃れようとしてそれぞれに活路を探した三人のうち二人が、すでに行き詰っている。残る一人、翠だけが、唯一の理解者である那由多が帰ってくるのを信じて、教室で孤独に過ごしている。どうしようもない状況だ。
花園だ。花園を切り裂いて無理に開けようとしてはいけなかった。すべてをあげようとしてもいけなかったのだ。
那由多には自分自身でも認められない傷があるが、それが彼女の正義を守っていた。淑子は恋人にも本音をめったに言わないが、それは繊細すぎる感性を守るためだった。それを一気に外に出してはいけなかった。
翠にも秘密があるが、彼女はその存在をだれにも打ち明けなかった。三人の友人たちは互いの秘めた思いをついに知ることがない(この物語は三つの章が三人の少女それぞれの一人称語りで書かれているので、読み手にはこの交わらなさがよく見える)。
それでいい。
タイトルの「秘密の花園」とは、女子ばかりの学園のことを指しているのではない。
彼女たちのひとり一人が心のうちにもつ不可侵の領域が、「秘密の花園」なのだ。そしてその花園は、だれかと分かち合うものでも、だれかの訪れを待っているものでもなく、永遠に自分だけのものだ。
そういう生き方は孤独だろうか。読み手の見かたによってはそうだろう。
けれど書き手は、決して開かれない花園が互いにそっと寄り添うような、理解しあえない関係に、かすかな希望をかけて物語を締めくくる。
自身のうちに不可侵の花園をもつことで、内から外から襲いくる波をしりぞけ、生きのびたその先に、ようやく一瞬だけ他者の花園を見ることができる。あなたもそうだったの、と。それはきっと、愛しい風景にちがいない。触れることができなくても。
「消えてしまわないで。それだけでいいの」
同文庫版p.268より
追記:イラストは上から翠、淑子、那由多。塗りはコピック(アルコールマーカー)で、紙はBBケント。本来、細密な植物画を描くために、英国で開発された紙である。




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