<存在しない人間の似顔絵を描き、存在しない時間に、確かにあったように固定すること>
「本を読んでイメージイラストを描くのが趣味です」と言うと、たいていの人に首を傾げられます。そういう趣味が世に存在すること自体、あまり知られていないのです。
描く人がいないわけではありません。しかし、たとえば、漫画を読んで漫画のキャラクターのイラストを描くファンと比べるとずっと少ないでしょう。叔父がコミックマーケット(全国最大規模の同人誌即売会)のカタログを持っていたので見せてもらったことがあります。出展サークルのページをつまんで分けると、漫画のイラストを描くサークルと、本のイラストを描くサークルの割合は50対1くらい……いや、それより少なかったかもしれません。もっと身近な例でいえば、小学校や中学校のクラスで休み時間に漫画のキャラクターを描いている同級生はいたと思います。では、本の登場人物をイラストに起こしている同級生はいましたか?そればっかりずっとやっている子は?
いなかったのではないでしょうか。いたら、かなり幸運です。私の周りにはいませんでした。
それにもかかわらず、私が本の登場人物をイラストにし始めたのにはきっかけがあり、続けられたのはわけがあります。
<ダレン・シャン通信との出会い>
『ダレン・シャン』シリーズは、バンパイアになった少年、ダレンの成長を描いた児童書ファンタジーです。小学生だった私は夢中になって読みました。
これにはおまけのパンフレットがついていました。“ダレン・シャン通信”です。シリーズものなので、前の巻を読んだ読者が感想を寄せ、それを編集部が新聞風にしてまとめたものです。イラスト投稿がかなりあって、両面印刷の片面はたしか全部イラストでした。衝撃でした。自分とそう年の違わない小中学生が、登場人物たちをかわいいイラストにして、しかもそれが上手なうえイメージぴったりなのです。
これだ。私もこれをやりたい。こういう風に描きたい。
無地の「自由帳」を広げて描いてみました。ダレンを。ふつうの男の子です。漫画のキャラクターと違って、これを見た人はこの子が誰だかわからないだろうな。私が何を描いているかきっとわからない。顔立ちを、表情をもっと工夫しよう。意志の強そうな目。秘密をもっている人間特有の孤独なたたずまい。周りにオオカミの群れも描こう。最初に想像した以上に、私の想像の中のダレンに近づいていきます。えっ、楽しい……これは、本を読んだことがある人が見たら、誰だかわかってもらえるんじゃない?もっといろんな人を描いてみよう。近づくかな?「似る」かな?
私は、休み時間には自由帳を広げて本の登場人物を描いている小学生になりました。
<『活字倶楽部』との出会い>
中学校に入ると、イラストを描く友人がたくさんできました。大人みたいに描ける子がいます。すごい。でも、漫画を読むのが好きでイラストを描き始めた子がほとんどで、話についていけないのが歯がゆくもありました(漫画は好きだけれど、家の方針でそんなに自由には読めませんでした)。逆に、友人たちは私がする本の話につきあうのが大変だったんじゃないかとも思います(近くに図書館があり、気軽に、かつ、新旧のへだてなく大量に本が読めました)。何かのフィクションに夢中になっているという共通点でわかりあっていました。けれど、ひとりで周りの誰も読んでない本の登場人物を黙々と描いていると、なにやってんだろ、と、たまに空しくなるのでした。本を読む友人もできました。大人みたいに難しい本を読める子がいます。すごい(語彙力)。そういう子の本の愛し方はもっとスマートです。私も、下手なイラストを練習するのはやめて、もっと「まじめに」批評とか文学論とかをやって本と向き合うべきではないの?
そんなある日―じゃない、私ははっきりとこの日を覚えています。2007年の2月14日水曜日でした。荒天でJRが止まり、バスを乗り継いで家に帰ることにしました。いつもと違う駅で降り、バス停に大行列ができているのを発見した私は、とりあえず寒さをしのごうと、知らない書店に入りました。
そこで出会ったのが雑誌『活字倶楽部』です。

(初めて買った号を今も持っています。)
『活字倶楽部/かつくら』は文芸雑誌です。メインである作家のインタビューや新刊案内のほかに、たくさんの読者投稿を載せていました。初めて見たとき何の雑誌かわからなかったくらい、イラストが多くて、それが、読者が自分の好きな本のイメージイラストを描いて寄せている、ということを理解するまでちょっとかかりました。信じられない。有栖川有栖が、長野まゆみが、“薬屋探偵妖綺談”のイラストがある。どうして私の好きな本を知ってるの?そしてみんな上手い。いや上手い以上に、迷いなく描いている。心を動かされました。好きな本の、好きな登場人物を、好きな絵柄で描く。こんなに楽しいことはないよ。その本が有名じゃないとか古いとかイラストにするには恐れ多いとか、誰もわかってくれないとか、どうしていままでそんなことを気にしていたんだろう?
私は後ろ盾を得ました。私は本を読み、存在しない人間の似顔絵を描き、存在しない時間を描いている。でも、私は決してひとりではないんだ。
自信をもってやっていると、周囲の空気が変わりました。友人が好きな本のイメージイラストを描いて見せてくれるようになりました。私がイメージイラストを描いた本を読んでくれる子もいました。しまいにはみんなで、京介はもっとさあ、とかいって“建築探偵”(篠田真由美の推理小説シリーズ)のイラストを描いたり。なんだこれ。楽しい。人生でこんな楽しい瞬間がそうそうあっていいはずない。いいはずないよ。楽しい。
<「ハガキ職人」時代>
大学に進学して親元を離れると、毎日のようにイラストを練習し始めました。楽しいのはわかった。できれば上手に、上手以上になって『活字倶楽部』に載りたい。初めてこの雑誌に出会った人の心を動かすことができるくらいになりたい。いま思うとおかしいほどに、他は眼中にありませんでした。つまり、描いたイラストをWebにアップしたりイベントに参加することは考えもしませんでした。『活字倶楽部』に届けるのでなくては意味がなかったからです。サークル活動も飲み会も行かず、バイト代は画材になり、さらに画材の使い方を練習しました。あんまり一生懸命イラストばかり描いていたので、年上の同級生が私のことを「ハガキ職人だねえ」と言い、あだ名が「職人」になりました。なぜかチームメイト全員が私の原稿締め切りを把握していました。もはや大会に出場する部活の扱いでした。最終的には構図ラフも選んでくれていました。ありがとう。

(自分の投稿作品のコピーをとっておき、載ったあとに見比べて反省点を記録していたファイル。やることが細かい。でもやらずにはいられませんでした。)
あんなに人生で頑張ったことはありません。趣味なんだからそんなに暑苦しく頑張らなくていいのにどうせ下手なんだからさあ、と思う自分がいる一方、1ミリでも上手くなりたかったのです。でも、技術的な上手さとは別に、一生懸命練習したり工夫したりしていると、描こうとした以上のものが出来上がることがありました。意図した以上のものが人に伝わることもありました。ともかく、それがわかるところまでやったのは良かったのかもしれません。

(荻原規子著『西の善き魔女』よりフィリエル・ディー。載ったときに、これは彼女の片割れ、ルーンの視点だったんだ、と思った。ルーンの目から見たフィリエルだ。描いているときはわからなかった。)
<「フリーランス職人」になる>
後ろ盾を突然失くしました。
『活字倶楽部』が休刊したのです。もう、私のイラストを受け取ってくれる先はないし、私は存在しない人間の似顔絵を一生懸命描いている変な奴に逆戻りだ。何も描きたくない。描く理由がない。そんな気がしました。ひと月くらい頭が真っ白でした。真っ白なまま、かつてラフを選んでくれた友人にばったり会ったので「ハガキ職人さあ、失業しちゃったよ」と話しました。
「それって失業なの?」
「いや、なにももらってないけど気分的にはそういう……」
友人はニヤッと笑って言いました。
「フリーランス職人になったんじゃないの?」
私は真っ白になった頭で、『活字倶楽部』が復刊するまでのイラスト制作のつなぎとして(だって描かないともっと下手になるから……)webでの発表形式を考え、合理的でない判断の末、SNSではなくブログを選びました。より大勢の人に見てもらいたいとか、そういう気持ちがなかった。けれど、ブログを整えるのは思ったより性に合っていて、少しずつやりたいことが増え、そして寒宵堂のためにイラストを描けるようになったとき―ようやく友人の言葉を受け止められました。フリーランスね。考えてみればこれまでだって、私は自分に発注して、自分で仕事を受けてきたようなものです。はじめから正気の沙汰ではないのです。運よく『活字倶楽部』に居場所を作ってもらっていただけで。
もう、ひとりで立つだけの力があるはずです。充分もらいましたから。
存在しない人間の似顔絵を描き、存在しない時間に確かにあったように固定することは、文字で書かれた世界の広い可能性、その一部を見えるようにする魔法のわざです。描く人も見る人も、作品の豊かさに新しく、もしくは再び、出会うことができます。それは私の中ではもう証明がなされています。知っています。さあ、描くんだ。
「一灯独守寒宵(一灯独り寒宵を守る)」、灯りをつけて本を読んでいる風景をあらわした古い詩句から、ブログの名前を採り、新しい号にしました。
それから6年です。
本を読み、絵を描いて置いておくことをこれからも続けます。いつも、私にとって、本との新しい出会いであり、懐かしい再会の場ですが、ここに誰かにとっての新しい出会いや再会があれば、これ以上のさいわいはありません。




コメント
六周年おめでとうございます。
記事の更新を楽しみにさせてもらっています。寒宵堂さんが、こちらのブログで好きな本との出会いや、本への思いを綴られていて、今まで知らなかった本と出会えました。ありがとうございます。
読みたい本が多すぎて、所有する本もどんどん増えているのに、読むスピードが追い付かず、生きている間に、あとどれだけ読めるだろう…と思ってしまいます。(焦ることなどないんでしょうけど。)
それぞれの本と出会えた幸せを噛み締めたいと思います。
>>1
コメントありがとうございます。お忙しい日々ですね。
本は、読むと読むだけ次の読みたい本が増えていくので、焦るのはもうしょうがないですね。と思って私は生きてます。できることならすべての大切な本に恩返しをしたいけど、それは無理なんだろうなあ。7年目もゆっくり進みます。
常連投稿者様が語るかつくらとの出会い、興味深いです。普段行く所と違う書店で、がかつくららしくて素敵です。出されるお題からどの本を選ぶか悩むのが楽しみでした。
三周年の記事、「安心感」がいいです。休憩時間に本を読める職場、羨ましいです。
先程Xに「屍鬼二十五話」について投稿されていたのに驚きました。題名が刺さったのであってインド映画民ではいらっしゃらないですよね⁉
>>3
こんな個人的な語りを読んでくださってありがとうございます。
ソーマデーヴァ『屍鬼二十五話』は、私は川原泉のエッセイ『事象の地平』であらすじが紹介されたことで知りました。なので映画の方は寡聞にして存じ上げずすみません……『ヴィクラムとヴェーダ』という、これを下敷きにしたインド映画があるのですね。
>>4
映画はタミル語/ヒンディー語の二種類です。互いに銃を向け合う関係性が大好物な民には刺さる作品なので、サツゲキさんなどでもし上映があればお試しくださいませ。髭に慣れてないと辛いかもしれません…と注意報を発令しておきます。