「神さまたちの遊ぶ庭」。タイトルが、記憶のふちに引っかかりました。
これは、このフレーズは、どこかで聞いたことがあるはず。どこだろう……?
小さな町の図書館で、並んだ背表紙をぼんやり眺めていたときのことです。私はまだ宮下奈都という作家を知りませんでした。
棚から本を引き抜いて、表紙を見た瞬間に、ひらめきました。
これ、“カムイミンタラ”のことだ!
知ってるはずだよ。だって、近くだもの。
北海道の中央に位置する2000m級の山々の連なりを、総称して大雪山といいます。周辺は大雪山国立公園に指定されるその一帯は、古くから崇敬をあつめ、アイヌの人々は“カムイミンタラ”―神々の遊ぶ庭、と呼びました。
日本列島でいち早く紅葉、冠雪することで有名ですが、そうでないときに全国ニュースで大雪山の名前を聞くとすれば、遭難事故のときかもしれません。甚大な被害を出した2009年のトムラウシ山遭難事故はいまだ記憶に新しいものです。
これはあくまで個人的な印象ですが、人好きのする山々ではないのです。少なくとも里山ではない。
外見(山容というのかな)からしても険しく、一年の大半は真っ白な雪をかぶって、浮かぶようにそびえており、なんというか、異界っぽい。まさに神々の領地という感じがします。
その大雪山に、住む話なのです。

北海道の大自然の中で暮らしたい、という思いで、大雪山国立公園の小さな集落・トムラウシに一家で引っ越してきた宮下家。子どもたちは全校生徒わずか15名の学校に通い、作家はその成長を見守る。これは一年間の日記の形をとったエッセイです。
冒頭、「(移住先は)帯広じゃだめなのか」という議論がされるシーンがあるのだけど、一緒になって「そうだよ、帯広じゃだめなの?」とハラハラしてしまいます。我ながらおせっかいです。田舎暮らしは楽しいことばかりではない。山村留学なんてうまくいくかどうかわからないよ。
けれど、書き手の宮下奈都はそういう視線をなかったことにしません。十分知っていながら、それでも、選んだ道を最善のものにしていく努力をする。その痛いほどの生真面目さが、この作品を支えています。
それは、宮下奈都のほかの作品たちにも共通している生真面目さです。この世界には残酷なことや理不尽なことがあふれている。しかし、それに呑まれたり迎合してはいけない。優しい世界を実現させるために進むんだ。たとえそれが、海図を持たない舟で海原を行くような前進であっても。
たぶんその気概による。トムラウシという厳しい山は、一家を受け入れた。
作家の一家はトムラウシの一員となり、部活動に、校外学習に、学芸会に奔走します。読み進めながら、北海道を嫌いになってほしくないなあ、と心配していた私の、予想のはるか上を行く楽しくまぶしい生活です。とくに子どもたちの活躍の様子は、いたるところでげらげら笑ってしまう。もちろん、生徒の人数が少ないことで苦労があったり、街が遠すぎて不便なことも書かれます。でも、それはそうだ、トムラウシなんだから、と思っているのが伝わってきます。そう思えたらもう、その山の人なんだ。
またたくまに、半年が過ぎます。
天空に覆いかぶさるような紅葉の道を歩いていると、不意に疑問が降ってくる。ここを離れても生きていけるだろうか。こんなに美しい場所を離れて、どうやって生きていくのだろう。
宮下奈都著『神さまたちの遊ぶ庭』文庫版p.169より
山村留学には期限があります。ここに残るのか、帰るのか、選ばなくてはいけない。手に入れた幸せについて、それがこのままずっと先まで本当かどうか、もう一度問うときがくる。
私がこの本を折にふれて読み返すのは、これが移住に限らず、とても普遍的な話だからです。「手に入れた幸せについて、それがこのままずっと先まで本当かどうか」私たちは生きている中で何度も問う。そして決めたら、勇気をもって進んでいきます。厳しいです。峠の向こうは誰も見たことがありません。倒れるかもしれないけど行くんだ。
宮下奈都の作品は、そんな泣き笑いのような道を歩く人に、きっとやさしい。
追記)さて、北海道大雪山周辺はなぜだかあたりまえに年間365日美しく、さらにそのうち20日くらいは「間違えて天国に来ちゃったかな……」という日があります。あるんです。だから、「こんなに美しい場所を離れて、どうやって生きていくのだろう。」というのは本当に、鈍器で頭を殴るようにしてやってくる切実な疑問なのです。ここに途中からやって来た人にとっては。
それで、私の選択に関していえば、ここにやって来て、そして離れなかったのです。

これもまた道です。空が高い。
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