息をするのも許されない緊張のなかで、物語が始まる。張り詰めた静寂が耳を聾する。あたりは暗闇。不安と高揚が同時に肌をびりびりさせる。押し出されるように、前へ。
これは、奇跡的なバランスで成り立つ、一度きりの夏の話だ。

絵を描くのに細部を確認しようとして、パラパラとめくったら、最初の合唱祭のシーンでもう引き込まれてしまった。何度読んでも魔法のような緊張感で、やめられない。結局、そのまま最後まで読んだ。わー、寝なきゃいけないのにー。
ひろみが入学したのは、旧制中学を前身とする歴史ある都立辰川高校。かつては男子校だったこともあって過半数を男子が占める辰川高校の独特の空気に、彼女は少しの居心地の悪さを感じながらも、次第に溶け込んでいく。自分たちの手で作り上げる合唱祭や演劇コンクール、体育祭が、ひろみと仲間たちの距離を縮める。しかしそれは「ゆりかご」の内の幸せにすぎないと思う者もいた。やがてその匿名の悪意が学校を脅かし始める。
これを「みずみずしい若者たちの成長物語、青春学園小説!」というところに着地させてしまえば、落ち着くのはわかっている。でも、そうしきれないから、時々読み返してしまうのだ。この本が出版社を変え装幀を変え、20年近く読まれ続けているのは、同じような読者がいるのかもしれない。青春小説に回収するには絶妙に座りが悪い。そこからはみ出す重たさがある。
校内の演劇コンクールで上演されることになったのは、旧約聖書を題材にしたオスカー・ワイルドの『サロメ』だ。ひろみはサロメを演じる謎めいた女子生徒・近衛有理と言葉を交わしながら、この戯曲を自分を取り巻く現実に重ねて思いを巡らす。

(こちらのイラストは、以前、雑誌 “かつくら”の2016年夏号に載せてもらったもの。ひろみ(手前)と、近衛有理(奥))
荒野の行者であるヨカナーンと、彼に恋した王女のサロメ。サロメは必死でヨカナーンを振り向かせようとするが、聖人である彼はサロメを「邪悪なバビロンの娘」と退ける。両者の世界は交わることがなく、サロメが銀盆に乗ったヨカナーンの首を王に所望することで、終わる。
「私ね、ヘロデヤとサロメが生きていた時代には、まだまだ女神崇拝が残っていたのだから、彼女たちは、ヨカナーンの神の論理とはちがう女神の論理を知っていて、その正しさに従って生きていたのだと思うの。サロメは罪だと考えていなかった。サロメは、救おうとしたのよ―目をつぶったヨカナーンを、彼女から見れば無知もうまいな目隠しから」
荻原規子著『樹上のゆりかご』中公文庫版p.259-260より
「首を斬って?」
「他に方法がなかったのよ」
物語の中盤から、二つの思いがぶつかり合う。辰川高校に適応できる「内」の人と、その空気に異を唱えなければ息ができない「外」の人間の思いだ。イデオロギーと言ってもいい。これが個人と個人の意見の違い、という枠に収まりきらないように見えるのは、現実の社会もまた、この高校と同じ「過半数を男子が占める独特の空気」に見えることがあるからだ。そこに入りきらない者がいるのも同じ。しかし、「内」にいる人たちからは、「外」の人が見えない。そこにちがう論理があることに気がつかない。
生徒会長の鳴海知章は、優秀で端正な男子生徒で、周囲からの人望も厚い。辰川高校に必要とされ、辰川高校の生活を愛している、まさに「内」の人間だ。彼に憧れる人はたくさんいる。しかし彼があまりに素敵で、そしてあまりに「内」しか見ないものだから……救おうとした人もいた。辰川高校の世界から、―首を斬ってでも。
そこなのだ。これが学園小説からはみ出してしまう部分は。
現実世界に横たわる恐ろしいまでの分断を、そのまま抱えている。対話で解決することは不可能かもしれないとさえ思わせる、この大きな壁をふいに示されて、読み手の私は慄然とする(ギリシア悲劇『アンティゴネー』の、延々と続く王と王女の対話、あの気高ささえ感じる分かり合えなさを思い出す)。
それなのに、その壁がある世界を、私は心から楽しいと思っている。読みながらそう思っている。本当に、理解できないものがある世界が、楽しいんだよ。
そんなわけで、私はこの作品の「外」の人がめちゃくちゃ好きです。
たぶん、それは書き手の荻原規子もそう。荻原先生はその後、「女神の論理」に真っ向からあたって、『RDG レッドデータガール』が書かれる。
ところで一方、主人公のひろみはと言えば、彼女は「ゆりかご」の内にも外にも属さない。
これは彼女のすごい才能なのだけれど、物語の始めから終盤ぎりぎりまで、いわば「境界」にいる。マージナルを保ち続ける。それも、少ない女子生徒として中心部から追いやられ仕方なく、ではなく、ごく自然に「内」と「外」とを行き来できる。生徒会の仕事に奔走し、生徒会メンバーに淡い恋心を抱き、「内」といえばこの上なく「内」でありながら、同時に「外」の人間は彼女を見込んで話をする。最後には第三者として立ち合いを求められている。この抜群の不安定感(ほめてます)。
そんなひろみも、終盤では「内」に入っていく。
でも、私はやっぱり、自分を辰高生だと感じていたい。名前のない顔のないものは、たぶん、私にとっての敵ではない。たとえ、女子でも……たとえ、落ちこぼれでも……
同p.344より
ここを読むといつも、ああ、ついに青春小説に回収されてしまう、と、どことなく寂しい気持ちになる。けれど、それがひろみの成長なのも確かなのだ。彼女はようやく辰川高校の「内」に迎え入れられ、自分の居場所を得た。その代わり、奇跡的なバランスは静かに失われた。
物語の緊張感は解かれ、穏やかなざわめきと、明るい光のなかへ、彼女は抜けていく。




コメント
カーテンの隙間から覗き見る物語・・・このような表現で恐縮ながら、今回も体験させて頂きました。
所属とか立ち位置とか、幾つかの(幾つもの)表現で表す「内」。対して境する「外」。
居心地であったり気性であったり(もしかすると方便であったり)、自らのそんなものの内と外の溶け具合を感じ、或いは見極めながら、そこに「居る」ことの小気味良さ・・・。
そんなことを考えました。
あぐりです
以前「ニコルの塔」でコメントしたものです
青春アドベンチャーで「これは王国のかぎ」を聴いていた時、
その続編が「樹上のゆりかご」という話をきいていたので、
どんな話か気になっていました。
こんど読んでみようかなと思いましたね。
>>1
感想をありがとうございます。
主人公のひろみがこの作品の冒頭で辰川高校の独特の空気を「それが自分の内側に見つかったり、外側に見つかったりすることに、私は最初から、なんとなく気づいていたのかもしれない」(『樹上のゆりかご』荻原規子著、中公文庫版p.8)と言っているのですが、完全に「内」、完全に「外」の人間なんて本当はいない。まさに「内と外への溶け具合を感じ、或いは見極めながら」過ごしていくのが現実です。これは、それに気づくまでの物語だと思うのです。
私のつたない記事でそれを少しでも伝えられたのであれば、さいわいです。
>>2
ありがとうございます。なによりです。青春アドベンチャーの『これは王国のかぎ』は私も聴いていました。ラシードが好きでした。
あのあと、失恋のショックで受験勉強に打ち込んだ(本人談)上田ひろみが進学校に合格してしまい、語り手として登場するのが『樹上のゆりかご』です。前作を知っていると、あ、これは、と思う登場人物がいます。是非お手に取ってみてください。