湿原にはまるつもりはなかった。はじめ湿原に興味はなかったのだ。
多くの人にとって湿原は「夏が来れば思い出す、はるかな」場所であり、夏が過ぎればまた忘れてしまう。私もそうだった。
ところがあるとき、一冊の本が私を湿原に引き寄せた。
地球上の水の循環を研究する学問を水文学(すいもんがく)という。私はもともと川の好きな子どもで、この分野の本を大人になってからも時々読んだ。川のオタクだった。地形や地質、気象によって複雑な調整を受ける流水の話は楽しい。川や湖の本を転勤先の小さな図書館で探すうち、やがて読みつくした。そのときはじめて、同じ水文学の分類で「湿原」の本が並んでいることに気づいた。あれ、湿原って水文学の範囲なんだ。
手に取ってめくってみた。北海道ゆかりの世界的な湿原研究者が、一般向けに書いた本だ。
北海道では、泥炭地と言えばどんな場所なのかは大抵理解されているが、本州では通じないことがよくある。泥炭そのものを見たことがないという人のほうが多い。
辻井達一著『湿原力 神秘の大地とその未来』p.111より
……いやちょっと待って、私、北海道民ですが泥炭地がどんなものか全然理解しておりませんですよ。えっ、その、みんなが知ってる泥炭地?が北海道の湿原にはどうやらすごく関係があるらしい……?
そこからだった。
この本では世界中の湿原の話が紹介されるが、著者が長く北海道の湿原を研究していたこともあって、地元の話に割かれるページが多い。読んでいくうちに、いつも見てきた風景の理由がわかってくる。私にとっては、日常の風景の見え方を変えてしまう本だった。
湿原とその泥炭地は、見えないルールとして北海道の産業を縛り、また恩恵を与えている。北海道が「湿原の王国」というのは本当だ。湿原こそが、北海道の王なのだ。
北海道にやってきた開拓者にとって、湿原は常に悩みの種だった。彼らは本州で湿地という湿地を水田に改良してきた。しかし、北海道の湿原においてはそれができなかった。冷涼すぎて枯れた植物が分解されず、そのまま何千年分も地層に堆積するのだ。これを泥炭地という。泥炭地はアルカリ性で、干拓が成功したとしても育つ作物は限られる。本州ならば稲作ができたはずの湿った土地は、時間と莫大なコストをかけて土壌改良するのでなければ、酪農をするか、ほかの作物に頼るしかなかった。豊かな生活を求めて開拓にやってきた人たちは茫然としただろう。今からたった100年前の話だ。
結局、札幌に近い石狩川周辺の湿原は大規模な干拓と客土(ほかの土地から土を運び入れる土壌改良)をおこなって水田を作った。石狩平野の水田は現在も暗渠を使って排水を続けている。ほかの湿原も一部は干拓して酪農をしたり、輪作で少しずつ土壌改良したり、泥炭地のままでも育つものを植えた。そういった努力により、現在の北海道の農業があり、ひいては全国的に共有される「北海道」の、色とりどりの畑や牧場が広がるあのイメージがある。
さて、残りの大部分はどうなったか。
湿原のままほっといておくことにしたのだ。フロンティア精神にも限界があった。
そういうわけで、今も日本の湿原の8割以上が北海道にある。というか残っている。

ところが、「開拓しなかった」ことがのちに時代の最先端を行くことになる。
湿原が湿原のままで存在することは、実は大事なことだったのだ。湿原があることで大きな洪水は防がれる。沿岸の海には浄化を受けた水とほどよい栄養分が供給され、ホタテやカキの養殖ができるし、昆布も育ち、鮭も戻ってくる。ウイスキーの製造には泥炭を使ってフレーバーをつける。単純な自然保護ではなく、徹底的な開発でもない。湿原を開発せず湿原のまま利用することを、ワイズユース(賢明な利用)といい、ラムサール条約以降の世界のスタンダードとなった。
もし北海道の湿原が全部干拓されていたら、と考えるとおそろしい。それは早々と行き止まりになる、その時だけの「開発」になっていただろう。すべてを人間のコントロール下においたら、その時見えている以上のことはできない。
私たちは湿原という王を、倒せなくてよかった。
王国は今もある。
涼しい透明な風が、耳の横を通り過ぎていき、細い草の葉をしゃらしゃらと鳴らす。蜻蛉たちの羽がきらきら輝く。鳥の飛び立つ音がする。
賢い王の作り上げた平和な世界に、人間もまた招かれている。

(写真は2021年7月に北海道豊富町のサロベツ湿原で私が撮影したものです)
参考文献:『あぐり博士と考える北海道の食と農』(北海道新聞社編、北海道大学農学部協力)p.38-49
追記)泥炭は乾かすと燃料として利用できる。一方、乾いた泥炭地に一度火がつくとなかなか消えず災害になることがある、という話を本書で知って思い出した本がある。
恩田陸の小説『麦の海に沈む果実』で、「国内最大級の湿原」にある丘の上に建つ、謎の多い学園が出てくる。この学園は不吉な伝説も含め、過去に何度も大火に見舞われている。国内最大「級」というが面積を考えるとそれはぶっちぎりで釧路湿原だろう。その丘の上となると、乾いた泥炭地である可能性が高い。大火になる理由はありそうだ。これ、泥炭火災じゃないかな。
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