『バルセロナ、秘数3』(中沢新一)―中沢新一という視点

 自家用CDジャケットを作成しました。バッハのトッカータ、BWV911のために。私にはこの曲のフーガ部分は、森の中で鳥が鳴き交わしているように聞こえます。

CDジャケット、中央に枯木立に止まって鳴くオレンジ色の鳥。

 中央のゴム版は単色で押し、画像を取り込んで加工する段階で、鳥だけ色を変えています。
 ほんとにアナログ版画で多色刷りをしようとすると、見当をつけたり(※色を重ねる時に原版がずれないように目印を付ける作業のこと)なかなかハードルが高いのです。正直言って技術が足りない(汗)。なので、デジタルでの「なんちゃって多色刷り」です……江戸の浮世絵刷師にぶっとばされるね。

オレンジの小鳥の版画

 そして、曲そのもののほかに、私の中でこの版画の土台になった文章があります。

鳥たちは、歌う。鳥たちは歌うことで、自分の専有するテリトリーを宣言するのだ。チュッ、チュッ。わたしはここに生きてます。ポー、ポー。わたしのまわりのこのわずかの空間は、わたしが生きるために神様からあたえられたものなのよ。

中沢新一著『バルセロナ、秘数3』文庫版p.82より

 この部分すごく好きだ。そしてこれ、この素敵な音楽的な語りは、人類学者が講談社学術文庫で書いている文章なのです。

 今回はこの本についてです。

 『バルセロナ、秘数3』についての説明は難しい。
 というか、中沢新一という書き手についての説明がすでに難しい。中沢新一は、最初は構造主義に詳しい文化人類学者として登場、かつ、チベットで密教の修業をした宗教学者でもあり、南方熊楠の研究をまとめつつ、かと思えばいつの間にか旧石器時代の宗教意識まで論の射程を広げている……思想家です。今、文庫の奥付を見たら思想家でした。えー、そうだったのか。私が高校生の時(10年前)の国語便覧では、まだ「人類学者」で載ってた。

 いえ、冗談ではなく、本当に、中沢新一の本を読み始めると分野はどうでもよくなってしまう。
 私は、古代の神道の話を読もうと思って講談社学術文庫の『精霊の王』を手にとったのがきっかけでした。そしてもう、2冊目からは、中沢新一を読むために中沢新一を読むようになっていた。独特の語り口、言葉の魅力もさることながら、複数の分野を縦横無尽に越境し、それらを貫く一つの源流をとらえようとする、その視点に力を感じました。世界の見方を丸ごと変えてしまうような力を。

 バルセロナ、秘数3』は小説のようにして始まる。一人の男がカタルーニャ地方を訪れる。謎の酔っ払いや書店の老人、聡明な若者に助けられながら旅する。彼らとの会話を切り口に、ヨーロッパの中のヨーロッパ以外、文明の中の始原の野蛮、差異の中の普遍を探す文明論の冒険が展開する。

 中沢新一は、すべての文明は自然との取引の上に成り立ったと考えている。その昔、私たちは取引の流儀も知っていた(それが彼の言う “対称性の思考” )。私たち人間はそれを暗黙の了解としていたはずで、しかし、暗黙にしているうちにいつしか忘れてしまった。中沢は、取引の本来の姿を知りたい。いわば、橋の土台に昔埋められた人柱を掘り当てようとする人なのだ。

 私と同じように、そんな中沢新一の視点そのものに目をひらかされる人、つまり「中沢新一を読むために中沢新一を読む人」が実はたくさんいたのだろう。だから、この10年で中沢新一は人類学者というより思想家になった。クロード・レヴィ=ストロースがそうであったように。

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