『クラバート』を初めて読んだとき、私は親元を離れて一人暮らしを始めたばかりの19歳だった。受験勉強を終えてふいに手に入った「自由」をかみしめ、反動のように本を探して読んでいた。
すでに子どもでなくなった私が読んでも、おもしろい児童書ファンタジーだった。魔法学校もの、と呼べるかもしれない。ただし、何かと引き換えに魔法を使えるようになる、その呪術的な取り引きの部分が綿密に描かれる、かなりダークな魔法学校ものだ。キリスト教化される前の古いヨーロッパの、死と再生のイメージがふんだんに盛り込まれていて、大人も惹きつけられる。謎めいた儀式や残酷なしきたり、めくるめく魔法合戦の末、力を得た主人公のクラバートは学校を出ていく。私はこれを一気に読むと、幸せなため息をついて本を閉じた。いい本を読んだ。やっぱりファンタジーはいいなあ。世界の秘密を知っているもの。
思えばこのとき私にとって『クラバート』は「世界の物語」で、「私の物語」ではなかった。
閉じた本がこの先、何度も問いかけてくることを、まだ知らずにいた。

『クラバート』は、ドイツ南東部に住む少数民族の伝説をもとに、プロイスラーが1959年から書きはじめ、長い時間をかけて、1971年に発表した物語である。
貧しい暮らしをしていた孤児のクラバートは、夢の中で、森の奥の水車場へと招く声を聞く。導かれてたどり着いたそこは、恐ろしい親方が魔法を教える秘密の学校だった。クラバートは年長の職人たちに迎え入れられて働きながら、魔法を学んで力をつけ、やがて村の少女の助けを得て、親方と対決することになる。
さて、この作品の魔法ものでない側面を強く感じたのは、カレル・ゼマンによって1977年のチェコで製作された『クラバート』アニメーション版を観た時だった。私は大学4年になっていた。ヤン・シュヴァンクマイエル(チェコ)やユーリ・ノルシュテイン(ソ連、ロシア)のアニメーション作品が、当時の体制下で政府による検閲をくぐりぬけて出来上がったことを知っていた。
だからこのアニメも「よく通ったなあ」とまず思った。大人向けの映画や文芸に比べて検閲が緩かったにしても、だ。人形劇ふうのデフォルメがされているのに、親方が職人たちを力で支配する様子が容赦なく怖いのだ。職人たちがなすすべもなく打ち据えられていく。「怖いでしょう。でも私たちの生きている現実だってこういうことじゃない?」画面はそう言っているように見えた。社会主義自由化運動である“プラハの春”が軍事力で弾圧されたのが1968年、それからチェコに民主政権が樹立される1989年の“ビロード革命”までは20年以上ある。そういう時代に作られたカレル・ゼマンのアニメは、強い意志と仲間の協力で親方の支配を脱していくクラバートの物語に、作り手の願いをのせて放たれたように感じた。
そうだ。原作の『クラバート』もきっと同じだ。魔法ものでありながら、その時代を生きる人たちに呼びかけるようにして作られたはずだ。そのとき私は強く意識した。
プロイスラーの『クラバート』が書かれ、発表されるまでの、当時の東西ドイツと中欧の様子を想像してみる。
ナチスドイツの支配を受けた、あるいはその支配に加担した世代が、この本の読者である子どもの周りにもまだたくさんいた。
おまえはわしにかくしだてをしている、なにかかくしている。おまえが自分からすすんで申し開きをして、わしにおまえをさぐらせんほうが、賢明というものではないかね?
プロイスラー著『クラバート[下]』文庫版p.133より
民族や思想を理由に収容所に送られた人がいた。戦後にソ連軍の捕虜になり、強制労働させられた人もいた。
ついに夜が白むころには、職人たちはいまにもたおれそうなほど疲れはてていた。からだじゅうの骨がこん棒で打ちくだかれたような感じがし、あえがないものはひとりもいなかった。
同p.50より
また、ドイツの敗戦とともに、ドイツ系住民は周辺諸国から強制退去となった。チェコのズデーテン地方からドイツに引き揚げた人だけでも300万人いた(プロイスラーもそのようなズデーテン・ドイツ人の一人だ)。
「どうしても雪をふらしてもらいたいのです」と、もうひとりの老人が言った。「さもないと今度の収穫がだめになり、飢饉に悩むことになる……」(中略)
同p.104-105より
「あんたたちは長年、一度も顔を見せたことがない。それが、わしが必要となると、とつぜんあらわれるんだな。」
子どもたちはそういう大人たちの話を聞き、もしくは、決して語られないその事情を感じとって育っただろう。暮らしの中に残ったいくつもの断裂や軋轢を乗り越えなければいけなかった彼らにとって、『クラバート』のセリフはリアルに感じられただろうし、これは「自分たちの物語」だったに違いない。
それは20世紀のヨーロッパに限らない。今まさに、この水車場のようなところに押し込められていると感じる人たちは世界中にいる。そういう読み手にとって、希望を失わず仲間と協力し、親方を打ち破って出ていく『クラバート』は、やはり「自分たちの物語」として感じられるだろう……だろうというか、のちに学校を出た私に、この作品は「自分たちの物語」として感じられた。どうしてこう、見てきたようなんだろう?親方はいた。大親分もシステムとしてあった。職人頭のトンダも、ミヒャルも、メルテンもユーローも現実にいた。私は働きながら何度も『クラバート』を思い出した。何度も、何度も、正気を保つために。
「それじゃ、なにをしたらいいんだ?」と、クラバートはたずねた。
同p.156より
「おまえの意志力をきたえるんだ。」

これが魔法の外のことを語れる物語だ、と思うところは、あともう一つある。この物語のつくりそのものだ。
クラバートは水車場から解放される方法を探す。しかし、ただ脱走したところで、親方の魔法の範疇にある森を抜けることはできない。自由になるにはただ一つ、水車場で定められた試練を越えることだ。親方の目の前で、からすに姿を変えられた職人たちの間から、愛する少女に自分を探し当ててもらうことなのだ。それを知ったクラバートは、少女に身ぶりで合図をするため、親方の魔法に逆らう鍛錬を始める。少女からもらった髪の毛の輪も、不思議な魔法の力を発揮してその助けになる。
この物語の元となった“クラバート伝説”では、首を左に回しているほかのカラスに対して、右の翼をむしっているのが自分である、と知らせておき、母は(伝説ではクラバートを助けるのは母だ)その通りに彼を見つけ、親方から解放する。
昔話は、話の筋を構成するいくつかの「機能」に分けられ、それらが組み合わさって類型を作っている、というロシアの民俗学者、プロップの説がある。それによれば、“クラバート伝説”のこの部分は魔法昔話のストーリーの要素である「主人公に標(しるし)がつけられる」「難題を解決する」「主人公が発見・認知される」に合致している。つまり、“クラバート伝説”は魔法昔話が長年つちかってきた類型の中におさまっている。そしてプロイスラーの『クラバート』の大部分もまた、典型的な魔法昔話の「機能」で成り立っているのだ。プロップの言葉でいえば、「不足ないし欠如」「贈与者の第一機能」「呪具の贈与・獲得」「主人公が追跡される」「主人公と敵対者とが、直接に闘う」「難題」等々。
ところが、『クラバート』の最後の試練の場面では、クラバートの鍛錬も髪の毛の輪の魔力も、親方のある妨害のせいでまったく無効になってしまう。しるしもない。
えー!そりゃないぜ!(子ども、大人、民俗学者一同の叫び)
しかも残り数ページ!!!どうなっちゃうの?!
……当てるのだ。
魔法以外の方法で。ぜんぜん不思議ではない、私たちの生きる現実の世界のやり方で、少女はクラバートを見つけだす。
その瞬間、物語は魔法昔話の類型の外に出る。
それだけではない。魔法を使わないで試練を乗り越えたことで、呪文を唱える、変身する、円陣を描く、呪具を身につける―「魔法で何かをする」という、この作品をこれまで構成してきた魔法ものの規則そのものが、崩壊する。
そうしてあとに残るのは、もう魔法使いでないクラバートと少女、職人たちなのだ。
魔法やしるしで当ててしまっていたら、たとえ親方を倒せたとしても、この物語は魔法ものの枠を出なかっただろう。こんなに見事には。
クラバートは真っ白な雪の中へ、仲間をともなって歩き出す。この物語が世に贈られた後も、何人もの親方が倒され、いくつもの水車場が焼け落ち、そこから歩き出す人たちがいた。
きっとこの先も、『クラバート』は誰かの物語だ。
【参考】
パウル・ネド編、大野寿子訳 “クラバート―ソルブの民話(6)” 国際文化コミュニケーション2018.3、p.171-197
ミシェル・デシェ著『地図で見るドイツハンドブック』原書房2020年
薩摩秀登編著『チェコとスロヴァキアを知るための56章』明石書店2003年
吉田孝夫著『語りべのドイツ児童文学―O・プロイスラーを読む』かもがわ出版2013年
ウラジーミル・プロップ著『昔話の形態学』水声社1987年
その他。
雑誌”文藝春秋”1985年12月特別号(第63巻13号)p.367-372に、丸谷才一(作家)、木村尚三郎(西洋史学者)、山崎正和(評論家)による鼎談書評があります。なぜそこに?という選書なので、まあこれは少年向け物語なんですけどねぇ……というノリから始まりますが、だんだん議論が白熱していきます。邦訳発売当時の受け止められ方がわかります。当時から「現代的だ」という評です。逆に「どのあたりが古典文学的か」という話もしてます。

【関連記事】
◆クラバートと少女の小さいイラストがあります。最後のシーンです。






コメント
更新が楽しみでした。
文章のボリュームもさることながら、熱意が伝わってきて、とても読み応えがありました。
今までファンタジー小説をあまり読んでこなかったように思いますが、それでもあの少年の頭をした青いカラスの絵の表紙は何度も目にしていました。
どうしても読みたくなったので、明日行く予定の大きな書店で探します。
コメントありがとうございます。とても思い入れのある作品なのでいろいろ考えた結果、これは個人ブログとしてはどうなんだ……という分量になりおろおろしていたところでした。読んでくださる方がいて、さらに『クラバート』を広めることができて、うれしいです。書いてよかった。