友人は、湖にボートで漕ぎ出し、行方を絶った。
駆け出しの物書き・綿貫征四郎は、空き家となったその友人の実家に、家守(いえもり)として住まい始める。

百年ほど前、のどかな疎水べり―琵琶湖疎水が、都へ向かっていく手前の、山のふもとの土地での出来事です。古くから交通の要衝であったその土地のこと、たくさんの人や、人でないものが綿貫の住む家を往来します。河童や、かわうそ、たぬきや人魚。
そして、ボートの水音とともに現れる、亡くなったはずの友人。
―どうした高堂。
梨木香歩著『家守綺譚』文庫版p.13より
私は思わず声をかけた。
―逝ってしまったのではなかったのか。
―なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
高堂は、こともなげに云う。
不思議な交流が、少しずつ綿貫の筆に変化を与えていきます。
これも長年読んできた本の一つです。梨木香歩作品のなかでは、覚悟が要らないほう、だと思ってました(逆に、覚悟がいる梨木香歩作品としては個人的に『からくりからくさ』がトップです。彼女の作品は、丁寧でうっとりするような生活の描写から始まって、いつの間にか、ひとつの文化の実りと過ちを、まるごと射程に入れるようなおそろしい強弓を引いていることがある)。
しかし、今回読み返してみると、これも決して易しい話ではない。
ふと思い浮かんだのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。ジョバンニが(ボートから落ちた)カンパネルラといっとき銀河鉄道に乗るように、綿貫は高堂の家で家守になった。だとしたら、親しい人間の死を受け入れるまでの話が、易しいわけないね。
ただ『家守綺譚』が描く百年前のこの国では、死は、そこまでの断絶ではなかったかもしれない。
作品の中盤で、「湖の方」から駅に着いた汽車を、綿貫は眺めます。隣ではやはり友人を亡くした少女が汽車を待っています。汽車に乗っているはずの友人に会うために。
―寒いときは、湖の底はしんとしているのですって。それほど寒いとは感じないらしいのですけれど、外が寒ければ寒いほど、湖はしんと静まってゆくのですって。
同p.138より
里で人が亡くなると、その人は近くの山に登って祖霊になる、と言ったのは民俗学者の柳田国男ですが(『先祖の話』)、この地域では亡くなった人はどうやら湖の底に行くらしいのです。綿貫の友人、高堂もそこにいるらしい。そして、湖の底とは、行き来ができる。
物語の終盤、綿貫はついに、湖の底へと招かれます。
私はこの場面が、梨木香歩の本領発揮だと思っています。私が、彼女のエッセイ『春になったら莓を摘みに』で圧倒された、小説家としての息苦しいほどの誠実さを、ここでもまた見る。でも、それだけではなく、残されて生きる人間への優しい眼差しがあります。
私たちは、誰かの死を完全に受け入れることが、できなくていい。思い出すたびに、死者は帰ってこられる。この国のそうした文化もまた、百年ののちに失われゆくものであるかもしれないけれど。
おまけ)琵琶湖疎水について
今までずっと、琵琶湖疎水がどこをどう流れているのか全然知らないまま、なんとなく湖のほとりの話だと思って読んできた。正直に言うと滋賀県の話だと思っていた。親近感を覚えて近江八幡(滋賀)から新米を取り寄せ、満喫してしまった。「みずかがみ」、おいしかったです。油ものに合う。
……記事に手を付けてようやく、地図と琵琶湖疎水の資料を集めて検討し、『家守綺譚』の家は今の京都府・山科区の北にあるとの結論に至りました。
山科は、東にはあの有名な「逢坂の関」があり、東海道と東山道と北陸道が横切る、まさに交通の要衝だったというので、綿貫が家から出なくても何者かがやってきて話が進んでしまうこの物語にはぴったりな気がしました。
それから、琵琶湖疎水は当時から先進的に、水力発電を行っていたので、綿貫の家には電燈があるわけです。「しょっちゅう停電するので、あまり当てにはしていない。」(同 p.39)とあるのは、送電が不安定なほかに、琵琶湖の藻が疎水を流れてきてよく発電所を詰まらせていた、という記録も関係がありそうです。そりゃあ、河童も流れてくるね。
参考資料:『京都お散歩凸凹地図』(実業之日本社編)
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◆高堂はどちらかというと体育会系のイメージ。





コメント
梨木香歩さんの本が好きで、色々と読んでいたにもかかわらず、この本は読んだことがありませんでした。今日、読み始めたのですが、一行目から、スッと物語の世界に吸い込まれました。石井さんのお描きになった二人のイラストがイメージぴったりです。郵便局を訪れた時に、自然の記録切手シートを私も買ってしまいました。
手紙を書くのが大好きなので…活躍させたいと思います。
ブログの更新を楽しみにしています。
>>1
ありがとうございます。イメージぴったり、と言われたのは実は初めてかもしれないです。うれしいです。
いつも、好きな本一冊一冊に恩返しをするつもりで記事を作っています(仇になってないといいな)。好きな本ほど自分のなかでハードルが高いので、どうしても更新は遅くなりがちです。気長にお待ちいただければ幸いです。今月も難破してます。楽しいんですけどね。