『海南小記』(柳田国男)―民俗学者とバカンスへ

 職場のエッセイで「民俗学、特に柳田国男が好き」と、ちらっと書いたら、思いのほか内外から反響がありました。書いてみてよかった(周囲には見渡す限り理系出身者しかいないし、私も理系です)。
 「柳田国男なら知ってるよ、『遠野物語』とかね、読んだことないけど……」と話しかけてくれる人、子どもの頃に聞いたふるさとの言い伝えを教えてくれる人、郷土料理のいわれを教えてくれる人、などなど。でも、なかでも面白かったのは、
「あのー、ぼくはどちらかというと南方熊楠派なんですけど、話しかけていいですか?
という、かれこれ1年以上一緒に仕事をしていた先輩の、妙に改まった呼びかけでした。
 ……いいですよ、怒りませんてば。熊楠でも折口でも宮本常一でもなんでもこいじゃ。でも一周回って柳田国男が好きさ。

 南方熊楠も折口信夫も宮本常一も、多大な功績を残した民俗学者ではあるのだけど、民俗学の話をするにあたって、もし一人だけ挙げよといわれたら、柳田国男を挙げるしかない。「民俗学」という学問が、彼のもとから始まるからです。

夏の木陰に涼む柳田先生

 柳田は無名の市井の人々を訪ね歩き、その日々の生活や民話、祭りや信仰から、文字に残らなかった歴史を考察していきました。これが、民俗学の始まりでした。
 しかも、若いころは詩作に打ち込んでいた彼には、記録以上の文章が書けたのです。

 今回取り上げるのは、柳田国男が九州から沖縄にかけて旅をした際に書かれた紀行文、『海南小記』です。100年前の南島の人々の暮らしが生き生きと描写され、そこに柳田の鋭い民俗学的考察がちりばめられています。しかし、続く大著『海上の道』と違って深く掘り下げることまではしない。
 さあ、民俗学者の後について、気ままなおしゃべりをしながら、島から島へ。

 さて、冒頭ちかく、荒天のため大分の保戸島に足止めされる場面があります。折しも島は「夜乞い」、祭の宵宮の最中でした。灯明と太鼓の音、急な石段を行きかう足音に彩られたにぎやかな夜を過ごした柳田は、翌朝早く小舟で出発します。

するとこの婦人を始め二、三の島の人が、今日の祭の案内に、四浦の村々へ餅を持っていっしょに乗って行く。出てみると浪はまだ高いが、親類の客や土産の大根、葱などを乗せて、もうもどってくる島の船もある。自分の船にもおびただしい重箱の包みがある。いつの間にこんなに搗いたかと思うほどの餅である。今日の船は餅船だ。あんた方は餅に便船したようなもんだと笑いながら、島の人たちは別れて浦々に上陸し、船には自分らばかりが淋しく残った。

柳田国男著『海南小記』角川ソフィア文庫版p.22より

 記録以上とはこういうところ。うわー、そう、祭りってそうだよね。ハレの日の楽しさと、少しのもの悲しさが鮮やかに描かれています。それをよそ者として外から見るときの、珍しさや淋しさも。
 柳田国男は、(論考でも)時に「美文すぎる」、つまり主観が入りすぎると言われることもあります。彼の言葉で民俗学が作られたから、後進の研究者はそれを振り払わなければいけないときがありました。戦後の民俗学は柳田を乗り越えることで発展していきます。でも、柳田の見てこなかったものを見ようとするほど、逆に柳田の功績の大きさがわかってきます。まさに、巨人の名にふさわしい。

 『遠野物語』や『木綿以前の事』が有名ですが、正直それらを読んだときにはピンとこなかった人(私だ)は、肩の力を抜いて、まずは歩く柳田の後ろをついていくといいのです。彼が実際どんなふうにものを見て、耳を傾けたか。それがわかると、民俗学にピントが合いはじめる。

 柳田国男と白い干瀬を歩こう。珊瑚の青い海を渡ろう。女たちのおしゃべりのなかへ、子どもたちの歌のなかへ入っていこう。

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