柳川『月の裏側』紀行 

 観光にはあいにくの天気でした。
 けれど、梅雨空につつまれ、堀から湿気が上がり、透明な水蒸気のキューブに閉じ込められたような街は、『月の裏側』を満たす空気を思いださせるものでした。

柳川、三柱神社の手水。唐傘が飾ってある。

 恩田陸の『月の裏側』は「箭納倉(やなくら)」という九州の水郷を舞台にしています。毛細血管のように街じゅう張り巡らされた堀が、物語が進むごとに底知れなさを増していく、冒険ものの趣があるホラー小説です。
 九州にあって博多とも近く、街じゅうに堀を巡らせた水郷とくれば、福岡県柳川市を思い浮かべます。
 ちょうど先月(2025年6月)福岡市に用事があったので、機会をとらえて柳川市まで足を延ばしてみました。

 レトロなアイスグリーンの特急に揺られ、西鉄柳川駅を出ると、西口にロータリーが広がっています。主人公の青年、塚崎多聞が、知り合いの三隅協一郎に迎えられたのがここでしょう。「ようこそ、箭納倉へ」。

西鉄柳川駅前のロータリーと協一郎。

 市街地の方へ歩いていくと、すぐに堀が見えてきます。天気が良ければ川下りの船が行きかうところです。
 ところで、柳川の堀はもともと水運のために造られたのではないのです。柳川城はあったけれど、城の守りのために新しく造られたのでもない。
 柳川の堀は、人間がここに住み始めた縄文時代からあります。溝を掘ってその土を盛り上げることで、湿地帯に安全に住めるようにしたことが始まりです。加えて、干満差の大きい有明海に面しており、しかも海抜の低い柳川は、満潮になると街が海面よりも下になってしまい、街を流れる川の排水ができなくなります。川の水があふれて冠水しないように、満潮から干潮までのあいだ、水をプールさせておく必要がありました。そのために人々は堀を整備してきたのです。
 信じられないほど古い、そして、今も現役ではたらく堀です。
(写真は、市内を流れる沖端川の分水として整備された人工水路、二ツ川)

柳川市内を流れる川。

 瓦屋根の家々のあいだ、ねこの白雨が通り抜けていきそうな路地があります。

柳川の路地とねこの白雨。

 カメラを構えると真正面に神社が写り込むのですが、別の路地を撮影しても、やっぱり奥に神社が写ります。神社を写さないことには写真が撮れないくらい。たぶん、ですけれど、「集落の境には神社か祠を置く」というルールに従ってつくられた古い由来の集落が、戸数を増やすとともに次第にくっついて住宅街になったのではないでしょうか。そんなことを考えます。

柳川の路地と去っていくねこの白雨。

 多聞と、後輩の藍子が調べものに立ち寄ったと思われる図書館です。水郷の歴史をまとめた小さな資料館が併設されています。
 作中の描写の通り、図書館の入り口のすぐ前を堀が通る造りです(写真がわかりにくいですが、左の建物が図書館です)。これはたしかに、大暴れしたら大変だ……。

柳川市立図書館の前につながれたいぬ。

 さて、柳川藩の博物館を見たり、小さな水族館でうなぎを見たり、骨董屋さんをのぞいたりして普通の観光もします。
 ところが、旧柳川藩主立花邸の駐車場の隣をのんびり歩いていたところ、予想外のものが目に飛び込んできました。

 あれは!

柳川市農協倉庫。

 農協倉庫、農協倉庫じゃないか!?
 うわー、本当にあったんだ!

農協倉庫の前の多聞と藍子。

 農!協!倉庫だよ!写真を撮りまくります。まさかこれを見られるとは思っていなかった。これはさすがに存在が創作だと思っていたよ。でもネタバレなのでこれ以上なにも言えない。うおお。うおおお。

 しとしと降る雨の中、かわいいおみやげを買って帰路につきました。刺繍の毬をモチーフにした、“御菓子処 白秋庵”の「柳川まり」です。見た目だけでなく、食べると、ふっと香るつくね芋が優雅さを感じさせます。城下町のゆったりとした時の流れを感じながら……

 ……まだ農協倉庫のこと考えちゃうな。
 堀も街並みも博物館もよかった。ついでに言うと、奮発して名物の柳川鍋も食べました。おいしかった。
 けれど、私はどうやら「柳川」だけを見てきたわけではないのです。
 あの建物が、なんの前触れもなく、ふっと道の向こうに姿を現したとき、柳川は「箭納倉」になった気がしました。

 そういえば、立ち寄った柳川市立図書館の書架には、ずいぶん読み込まれた『月の裏側』が置いてありました。
 今までにもたくさんの人たちが、柳川が「箭納倉」になった感じを味わってきたのかと想像すると、震える心地がします。その感想を聞いてみたいような、みたくないような気持ちです。
 いま住んでいる街がかつてない光景になっていくのを物語の中で見とどけたあと、いつもどおり外へ出て見た街は、きっといつもと同じではなかったはずです。はじめからどこかで柳川に「箭納倉」を期待して訪れた私よりも、衝撃は大きかったでしょう。
 ロマンチックな光景や、わかりやすく郷土愛が強まるようなシーンがある物語ではありません。ホラー小説です。
 でも、恐怖を超えたところにある不思議に穏やかなラストも含めて、あれを自分の街の物語として読んだ人を、通りすがりの人間としては、少しうらやましいと思ってしまうのです。

 

 

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