寒宵堂八周年

 このブログを開設した8年前、私は雑誌『活字倶楽部』のイラスト投稿から発表の場を移したばかりでした。イメージイラストに小説作品の魅力を詰め込むことに夢中だったので、長い文章は書けませんでしたし、書く必要も感じていませんでした。
 ところが現在、私が「本の話」を書こうとすると、削っても3000字ぶんはかかります。Web記事として短いとは言えません。でもかかります。
 なぜか。
 結論から言うと、私はいま「自分の見方がおかしい」ことを知っているからです。
 2024年あたりから、個人的な経験に基づく主観のパートと、それなりに客観的根拠のある分析のパートが相互作用する文章として「本の話」を組み立てるようになりました。
 それを支えたのは批評の力でした。
 寒宵堂の批評との付き合いから、今回は「書くこと」について振り返ります。

◆批評をやるつもりはなかった
 大方の人がそうであるように(?)、私にも批評に対する漠然とした苦手意識がありました。
 批評にはどうしても価値づけの側面があります。そこが強調されると「あれはいい」「これはダメ」の文章になり、賛同しない人にとってはイライラするものです。実際、自分が好きな作家について厳しい批評をされていると、批評の書き手が嫌いになることすらあります(私は高校生のとき、それで歌人の塚本邦雄を恨んでいました。損しました)。おまけに言葉がよくない。批評Criticismには、日本語でも英語でも「批判する」という意味合いが既に含まれます。だから「批評です」と言うだけで、少なくない人が身構えるのはしょうがないことです。
 そういった経験や実感があって、「ましてや自分が、批評を書いてエラそうに価値づけや批判をするなんて“批評家”のようなことはやりたくない」と思っていました。
 ただ、苦手だと思いながら、私は10代から途切れることなく新旧の批評を読み続けました。批評のReviewの面、「よく見て物事をとらえなおす」ことは、早い時期から好きだったからです。
 図書館で批評の本をぽつぽつと借り続けているうちに、突然、誤解が解けるときが来ました。

◆自分の見方がおかしいと感じるとき

自分の見方がかなりおかしいらしいと思える時、人はその由来を尋ねる理由をもつ。

加藤典洋著『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。』p.148

 これは批評家の加藤典洋が“孤立した要素”という美術評論の冒頭で「バルチュス(バルテュス)がセザンヌに似ている」という驚きの問題提起をしたあとの一文です。セザンヌは明るい色の静物画で有名な19世紀印象派の、対してバルテュスは凍りついたポーズの裸体の少女たちを暗い色彩で描く20世紀後半の画家です。モチーフも画面のトーンも大きく異なるように思えます。だからこの提起は、少し西洋絵画を見たことがあるくらいの人なら「そんなわけない」と異議を唱えるところです。
 しかし、加藤はきわめて実践的かつ簡便な方法で、バルテュスの画面の中で人物だけが調和していないことを指摘し、人物以外でセザンヌとの類似点を挙げて読み手を納得させてしまいます。それだけでなく、バルテュスが調和しない方法で人物を描くときにどのような効果が起こるか説明し、読み手をバルテュスの絵のさらなる深みに誘います。単行本にしてたった4ページの短い文章です。
 ……なんだなんだそうだったのか!早く言ってほしかった。
 バルテュスがセザンヌに似ていることではありません。
「お前の見方はおかしいからダメだ」という社会の圧力が、自分に強く長くかかっていたことです。その圧力を、加藤は読んでいる私の分まで、目の前で薙ぎ払ってくれました。
 世界がぴかぴかと雨上がりのようにクリアになりました。こんなに気分がいいものか。
 自分の眼でものを見ていいってことは。

バルテュスの「窓辺の少女」を見る加藤と石井(イヌ科)

◆「おかしい」から、創造的なものの見方へ
 改めて、批評のことを「世界を認識する精神の働き」であるとあえて広く定義しましょう。まだメジャーではない認識の仕方であればこそ、批判しているように見えるかもしれませんが、そこが主眼ではありません。
 そして批評家というのは、自分の認識が他人と違うことを受けとめ、そのわけを真摯に探り、最終的に「創造的なものの見方」にまで高めて提示する人たちのことです。
 吉本隆明は自分の見方が「おかしい」ことに悩んでいた人です(詩集を読むとよくわかります)。しかし彼はそれを鍛え上げて、明晰でオリジナリティのある批評で同時代に影響を与えました。ロラン・バルトは複数分野をかけもちしていたので、文学を縛る不自由なルールがよく見えました。彼が発表した論考は、文学の世界をより自由にして今に至ります。蓮實重彦は注意深く映画を観る人です。他の人の気づかないところまで見えます。彼が言葉を尽くして説明した「見方」は、監督本人含め世界中を説得しました。
 「自分の見方がかなりおかしいらしいと思える時、人はその由来を尋ねる理由をもつ」。
 この先の可能性を感じさせる言葉に聞こえてきます。
 よし。私も、世界の中で自分が個であることを引き受けるところから始めてみる。

◆批評の練習
 批評が真にクリエイティブなものの見方であるために、センスや感覚以前に、書き手にはある程度の訓練が必要です。批評には先人の積み重ねがあり、歴史的背景があり、生み出された技法があります。どこを見ればおもしろいことに気づけるかの定石があります。私は関連書籍を読んで初めて知りました。定石を学ぶと、自分の思いつきが作品にとってまったく勘違いだと思いなおすこともよくありました。
 それでも楽しかったです。的からはずれても次がある。うまいまずいはともかく、私には批評をやる「理由」だけならたくさんありますからね。どんどんやってみよう。

◆批評の力が目指すもの
 そうしてやっているうちに、思い出したことがあります。
 子どものころ、「ひとと違うことは悪いことではない」と、大人たちは、私に幾度となく言葉をかけてくれたものです。
 私には当時、それが単なるお題目にしか聞こえませんでした。現に困っている。だって、皆が本当はそんなふうに思っていないことがよくわかる。ごめんなさい。なるべくおかしくないようにしなきゃいけない。そう思っていました(私がたくさんの本を読んだのは、自分と周囲との溝を埋めなければいけないという焦りからでもありました)。
 いま、私があのときの大人の立場だったら、同じようでいて違った言葉をかけると思います。
「ひとと違うことは悪いことではないんだけど、きみはいまそれが苦しい。しかし、もしきみが自分自身のことを深く理解して、世界と自分との距離を正確に測り、表現できる力がつけば、いずれその苦しさは小さくなる。むしろ、自分が世界でたったひとり自分の声をもって存在することに、よろこびを感じられるかもしれない」

子どもの石井と大人の石井(イヌ科)

 私の見方は、世界でたったひとりのものの見方です。これを読む誰かだって、たったひとりのものの見方を持っています。
 違いを認め、由来を問い、言葉を尽くして説明することで、批評の力は、そこに橋を架けるでしょう。

 願わくは、ひとりの「理由」が、世界を少しだけ照らしますように。
 手から手へ灯が広がって、地平線のかなたまでが、いつか明るくなりますように。

コメント

タイトルとURLをコピーしました